(07)

 

 

 

十字架の模様の浮かんだ瞳が、降り注ぐ刃の雨を捉えた。眼前に迫る凶刃にまるで物怖じすることなく、漆黒のクロブークを被った修道女(シスター)が聖職者に見合わぬ両手の得物を構える。

 

「ミッキーバレット!」

 

上下にグリップのついた奇妙な二丁の拳銃が火を噴き、次々と刃を撃ち落とす。命中する軌道の刃だけを正確に射貫き、黒の修道女はその場から一歩も動かず凶刃の雨『スティッカーブレイド』を防ぎ切った。修道女と対峙しているのは、四肢の先に幾重にも重なった刃を携える狼の魔獣。魔獣は十八番を破られ忌々し気に吠え、牙を剥き出し修道女に正面から飛び掛かかった―――かと思うと、次の瞬間にその姿がブロックノイズに覆われて掻き消えてしまった。凶刃を前に毅然として動じなかった修道女も、思わず目を見張る。

 

「後ろだよお姉ちゃん!」

 

突如として甲高い声が戦いの場に割り込んだ。いち早く声に反応したのは、修道女の視線ではなく拳銃を携えた右手。ノールックショットが修道女の背後に撃たれ、足元の影の中から這い出ようとした魔獣の前肢を正確に撃ちぬく。刃で覆われてない箇所に銃弾が貫通し、魔獣は大きな悲鳴を上げて飛びのいた。

 

声を上げ『ブラックマインド』による不意打ちを伝えたのは黒の修道女とよく似た、しかし彼女と比較して小さい背格好の少女の姿をした者。黒の修道女とは対照的に柔らかな印象を与える薄桃色がかった白い服を着ている。服装だけでなく表情も対照的で、目の前で行われている生死のやり取りに対する怯えが顔に浮かんでいた。遠巻きに戦いを眺めており、得物らしき三又の槍を無造作に傍に転がしていることからも、直接的に加勢するつもりはないらしい。

 

二つ目の十八番も失敗し負傷した魔獣は、先ほどよりもいっそう忌々し気な唸りを上げ、痛みの原因を見やった。銃弾を放った修道女ではなく、それよりも根本的な原因を。憎々し気に一吠えすると、再びその姿がブロックノイズに覆われて消える。視線の動きに気付いていた修道女は、それの意味するところを即座に察し血相を変え飛び出した。

 

「ブラン!危ない!」

 

警告とそれを受け取る側が先ほどと逆になったが、先と違って受け取った側は得物も反射神経も胆力も持ち合わせてはいなかった。振り返るころには大きく開いた魔獣の顎が眼前に迫っている。飛び出した黒の修道女の拳銃の射程圏内に既に魔獣は捉えられていたが、最愛の『妹』に万が一でも誤射する可能性を恐れたのか彼女は引き金は引かなかった。小さな白を長身の黒が突き飛ばし、その右腕が魔獣の牙へ差し出される生贄となった。血肉の通った人体のそれとは思えない硬質な破壊音が周囲に響き渡り、細腕が銃を握ったまま上腕の中間から千切れ飛ぶ。修道服の袖を付けたままくるくると宙を舞ったかと思うと、鞘から刀が引き抜かれるように遠心力で袖から球体関節の覗く人形の腕が飛び出でて地に落ちる。そんな光景が、ブランと呼ばれた者の瞳、十字架のない虹彩に焼き付けられた。

 

「ノワールさん!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(01)

 

 

 

「大丈夫?怪我はない?」

 

蹲っていた少年の前に右手を差し出した女性は、教会にいる修道女の様な格好をしていた。頭にかぶる漆黒のクロブークには猫を模したと思しき顔と耳が付いており、また動きやすさを優先したのか、聖職者にしてはスカートの丈が短い。しかし何よりも違和感があったのは、彼女の瞳に浮かぶ十字架だった。透き通るような虹彩の上で交差した線が描く十字架が、その端正な顔立ちと相まって人形のような、造りものめいた非人間的な印象を醸し出している。

 

「君、人間よね?この世界に迷い込んで来たのかしら?」

 

人間か、と問われ少年は目の前の女性はやはり人間ではないのだと解釈した。瞳から受ける印象もさることながら、彼女が先ほど見せた人間離れした身のこなしがそれを確信させる。この地に迷い込んだ少年を襲った巨大な怪物を、不意に現れた彼女は容易く翻弄し撃退して見せたのだ。

 

「怖がらないで。私はシスタモン・ノワール。まずは安全なところまで案内してあげるわ」

 

シスタモン・ノワールと名乗ったその女性は、少年と同じ目線まで屈むと手を取り微笑んだ。手に触れた感触は人肌の様だが温かみのない人工物感があったが、浮かべた笑みは朗らかなもので、未だ何が起こっているのか理解できてない少年の緊張を弛緩させる。ようやく命の危険が去ったことを確信すると、ぽろぽろと涙がこぼれた。

 

「大丈夫、大丈夫。人間のあなたがデジタルワールドに迷い込んだ原因は分からないけど、必ず家に帰してあげるわ」

 

シスタモン・ノワールが少年の肩を抱き、優しく立ち上がらせると彼女の後ろに控え、三又の槍を握りしめ油断なく周囲を警戒していたもう一人の人物が歩み寄ってきた。シスタモン・ノワールと同じように修道女の格好をしているが薄く色づいた白い服を着ている。クロブークには垂れた長い耳を持つ兎の意匠。そして背丈は少年と同じくらいの少女で、シスタモン・ノワールの妹分と言った印象を受けた。

 

「はじめまして…私は、シスタモン・ブラン。お姉ちゃんは凄く強いデジモンだから安心していいよ」

 

その印象通り、シスタモン・ノワールとシスタモン・ブランは姉妹であったようだ。やはり彼女の笑顔も朗らかで、その瞳には姉譲りの十字架が浮かんでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(08)

 

 

 

「ブラン」はおぼつかない手つきでシスタモン・ノワールの応急処置にあたっていた。「ブラン」を庇ったノワールは魔獣・サングルゥモンに右腕を食い千切られたものの、その瞬間に残った左腕の拳銃を喉笛に突きつけ発砲。残弾は全てサングルゥモンの体内で暴れ狂い、デジコアを破壊し絶命させるに至った。維持不可能となった肉体が粒子となり欠片も残さず雲散霧消していくのを見届けると「腕、拾ってきて」と淡々と告げ、「ブラン」に応急処置を促した。

 

『パペット型デジモン』に分類されるシスタモンは外見上はほぼ人間と変わりないが修道服の下には球体関節が隠れており、その肉体構成(マトリクス)は他のパペット型やマシーン型に近いものになっている。よって手足の欠損と言った重症でも止血に類する処置は必要なく、破片を集めて破損個所を繋ぎ合わせ、添え木でも当てて固定しておけば後はデジモン自身の再生力により数日のうちに破片同士が固着し完治する。より高度な施術や治癒能力を持つデジモンの力ならより早く治癒させることもできるが、現状「ブラン」が行えるのはそのようなシンプルな措置のみであり、それですら手際が良いとは言えない稚拙さだった。ノワールの負傷の大きさに怖気づいているのか、表情からは血の気が失せており指は震え、何度も破片や添え木を取りこぼしていた。ミスをするたびに「ブラン」はノワールの顔色を窺うが、無言のまま非難も擁護も伺えない表情で見つめ返してくるばかりであり、何とも言えないいたたまれなさ、居心地の悪さが「ブラン」に纏わりつく。

 

「お、終わりました…」

 

ようやく「ブラン」が応急措置の終わりを告げると、ノワールは添え木が当てられた箇所を見つめ右腕を軽く振って具合を確かめる。歪にテープが巻かれた見た目は非情に不格好だが、グラついたりすることもなくしっかり固定されており、ズレている様子もないので良しとしたようだ。そして手当しやすいようはだけていた衣服を着直すと、ノワールは不意に「ブラン」の頬に平手を見舞った。乾いた音が響き渡る。決して全力ではないが、痛みを伴わない冗談めいたものとは程遠く、叱責の意図が伝わるには十分すぎる程度の力がこもっていた。

 

「『ノワールさん』じゃなくて『お姉ちゃん』」

 

相変わらずノワールの表情は起伏に乏しかったが、声色には有無を言わさない強い非難が宿っている。十字架の浮かんだ瞳が『妹』を射貫くように見つめ、これは要求ではなく命令であると言外に語っていた。

 

「…はい、お姉ちゃん」

 

こうして呼び名一つで体罰を伴う叱責を受けるのも初めてではない。何度目かも分からないこのやり取りに、「ブラン」の十字架のない瞳に涙があふれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(02)

 

 

 

「父さん?父親がいたの?デジモンに?」

 

異物感のある単語を耳にして、少年が訝し気に尋ねた。焚火を囲んで向かい合っているのは黒い修道女、シスタモン・ノワールだ。

 

「そう、父さん。デジモンは人間のように生まれてくるわけじゃないけど、私とブランにとってガンクゥモンはあなた達人間でいうところの『父』だったわ」

 

そう言って焚火を見つめるノワールの視線の焦点は、ここではないどこか遠い場所を見つめているように思えた。この場にいない『父』を懐かしみ想いを馳せているのだろう。同じく焚火を囲んでいるシスタモン・ブランも同様だった。

 

「…私達もデジモンとしては特殊な生まれの方だけどね。お父さんは世界の正義と平和を護る十二の騎士の一人。私とお姉ちゃんはそのお父さんの役目を助ける為に『姉妹』として神様に創造されたのよ」

 

「役目って、『悪』の勢力と戦う事?」

 

ブランの言葉に少年が問う。この世界に来た直後、出会ったその日に「この世界は巨大な『善』と『悪』の戦争状態にある」と姉妹から聞かされていた。『悪』に組みしたデジモンは破壊の為の破壊、殺戮の為の殺戮を繰り返し平和に暮らしているデジモン達を脅かしている。シスタモン姉妹は、そういった『悪』から争いごとに長けていないデジモンを助けながら旅を続けているのだと。

 

「それで正解と言えば正解なんだけど、父さんと私達の役割はちょっと違っていたの。やがてこの世界に現れると言う『新たなる騎士』『選ばれしもの』『救世主』…とにかく突別な誰かが現れるからその子を育て鍛え上げる、それが私達に課せられた使命だったの」

 

「お伽話みたいだ」

 

思わず口をついて出た少年の率直な感想に、姉妹は気を悪くした様子もなく微笑みを漏らす。

 

「フフッ。まぁ、その『選ばれしもの』様が見つかるまでは草の根活動よ。父さんと私とブランの三人で旅をして、目に付いた人々の助けになる。地味な活動だったけど、軍団を率いて『悪』の本隊と戦う役目の他の騎士たちは小回りが利かない立場だから、彼らでは取りこぼしてしまう様な人々を救うという大事な役目だって父さんは胸を張っていた」

 

そう語るノワールの表情は誇らしげで、彼女自身も『父』と同じようにこの役目を誇りに思っていると言葉がなくとも伺えた。ブランも同様の自身に満ちた表情をしている。しかし、続きを語る段になると姉妹の表情に影が差した。

 

「…でも、父さんは結局本来与えられた使命を果たせなかった。この地方に潜伏していた、『悪』の軍勢の強大なデジモンから皆を守るために相打ちになって命を散らした」

 

「ご、ごめんなさい、辛いことを思いださせてしまって…」

 

「いいの、父さんの話、誰かに聞いてほしかったんだから」

 

「それにお父さんのやっていたことは絶対無駄なんかじゃないよ。それをお姉ちゃんと私で引き継いだおかげで、こうして君を助けることができたんだからね!」

 

場の空気を明るくしようと、ブランはウインクして見せた。現在、少年はシスタモン姉妹の傍に同行し各地を回っている。デジモン達がリアルワールドと呼んでいる、少年が元居た世界に帰る方法を探すためだ。人間から見て文字通り怪物的な身体能力を持つデジモンが闊歩するこの世界の危険性を肌身で味わっていた少年にとって、姉妹が自ら彼を旅の道連れにすることを自ら申し出たのは渡りに船であった。言葉で表せないほどの深い感謝と信頼を、少年は姉妹に寄せていた。

 

「父さんは亡くなる間際に『生まれ持った使命や神や俺の言う正義なんて忘れてもいい、自由に生きてくれ』って言ってくれたけど…目的もなく生きるのってしっくりこなくてね。ま、こうして無理しない程度に正義の味方やることにしたの」

 

「僕はノワールさんとブランに出会えて、凄く嬉しかったよ。二人のお父さんにもお礼を言わなきゃいけないね」

 

「どうだろー。お父さん顔に似合わずちょっとツンデレ入っていたから、素直に喜ばないんじゃないかな。『ロイヤルナイツは他人の感謝の為に正義であるのではない!己に克つ為に正義であるのだ!』とかまたよくわからない事言ってさ」

 

「ブラン、似てるじゃない!」

 

口を尖らせて故人の声真似をするブランを、ノワールが噴出しながら称賛する。少年は会ったこともない人物の物真似で盛り上がられ少し困惑したが、合わせて適当に噴き出して見せた。そのようにして談笑しながら、その日の夜は更けていった。

 

少年にとって家族とは『息子』『跡継ぎ』『弟』『兄』などの『役割』を必要以上に押し付けて支配しようとする疎ましい存在であった為、姉妹が『父』への信愛を口にするたびに僅かなしこりを感じていたが、それを表に出すことはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(09)

 

 

 

森林の中を静かに流れる清流のほとりで、「ブラン」は自らの修道服を洗濯していた。

 

デジモンが身にまとっている一見人工物のように見える衣服やアクセサリー、得物の類は当人の肉体の延長線上にあり、種族・固体にもよるが『着脱可能かつ肉体同様に自然治癒する』という特徴がある。着脱して補修・洗浄する事も出来るが、自然治癒で多少の汚れや細かな傷の類はそのうち消えてある程度綺麗な状態が保たれるので、デジモン達は人間に近い外見の種でも服を脱いで丸洗いするという行為を日常的には行わない。

 

森林の中を静かに流れる清流のほとりで、「ブラン」は自らの修道服を洗濯していた。

 

兎のクロブークも、ブーツも、下着すらも何もかもまとめて全部一度に洗濯しようとしている。「ブラン」は何一つ身に着けていない。太陽が南中を迎えて尚涼しさを保つ森の清涼な空気に素肌を晒して震えながら清流に服を浸して洗っている。わけの分からない惨めさが沸き上がり、それが内側で膨れて中から自分にヒビを入れる音が聞こえてくるような錯覚を味わっていた。

 

「見張りはやってあげるから服を脱いで洗ってきなさい。何時間かかっても構わないから完全に綺麗になるまで止めちゃ駄目よ」

 

数刻前にそう命じたノワールは、川岸から少し離れた岩場の上に座っている。銃こそ抜いていないが視線は油断なく周囲を伺っているのが見て取れた。しかしノワールが最も強く意識を割いているのはいつ現れるかも知れぬ他のデジモン達ではなく、裸身を晒している自分ではないのかと「ブラン」は気が気でなかった。無防備な自分を護衛している以上、常に視界の端に捉えているのは当然のことなのだが、その理由だけでは説明のつかない異様な圧をノワールの視線から感じ取っていた。反抗や逃亡は許さないという強迫の念と、惨めな姿を晒して楽しませろという嗜虐心が視線に込められているように思え、さらに「ブラン」の精神を苛んだ。

 

視界が涙で滲む。こうやって全裸で洗濯をすることを強要されるのは何度目かも分からないのに、永遠に慣れる気はしない。初めはほぼ毎日のように命じられたこの苦行も最近は少し日が空くようになったのでやがて終わるかもしれないと、自分でも信じ切れてない希望にすがりながらクロブークの汚れを擦った。額の部分についている兎の顔が川の水で塗れて、まるで泣いているようだと気付いたら余計に悲しくなり、思わず手が止まる。「ブラン」は滑らかな白い背中を丸めて蹲り、くぐもった嗚咽を漏らす。ノワールの視線は、全く動じることなく周囲と『妹』を監視し続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(03)

 

 

 

「前にね…お父さんが亡くなって二人旅を始めたばかりの頃、私とお姉ちゃんによく似たデジモンに出会ったことがあるの」

 

黒と白の『姉妹』に対して、金と銀の『姉弟』。血の繋がりを持たぬはずのデジモンでありながら、兄弟姉妹というパーソナリティを持つ奇妙な存在。それが二組、対峙したことがあったという。

 

「あの二人と戦って生き延びることができたのは相当運が良かったんだと思う。私とお姉ちゃんのように強い絆で結ばれていて、凄く強いデジモンだった。私達に似ているのはそこだけだったけど」

 

可憐で正義を信条とするシスタモン姉妹に対し、金と銀の姉弟は野蛮で野太く、『悪』に組みしてはいないものの力まかせに万事を決することを良しとする乱暴者であったという。そしてそれ以上にブランの興味を引く相違点が姉弟にはあった。

 

「弟クンは『成熟期』だったの。筋肉ダルマのお姐さんの方も同じ『成熟期』。ノワールお姉ちゃんは『成熟期』で、私は『成長期』なのにね」

 

『成熟期』『成長期』という名称はデジモンの成長段階を表す単語であり、デジモンは成長すると『進化』と呼ばれる現象によって姿を大きく変える。基本的に多く『進化』を重ねたデジモンほど戦闘能力が高い。『成長期』の次の段階が『成熟期』である。つまり、金と銀の姉弟は姉と弟がほぼ同格の戦闘能力を持つが、シスタモン姉妹は妹の方が戦力として一段階劣るという形だ。

 

「…その弟クンが羨ましかったの?お姉さんと肩を並べて戦えるから?」

 

話を聞いていた少年は、デジモンの基本的な生態を既に教え込まれていたのでブランの言わんとすることをすぐに察した。ブランが軽く頷いてそれを肯定する。

 

「デジモン達の事、全部を知ったつもりはないけど、ブランは強いデジモンだと思う」

 

その称賛は偽りなき本心だ。姉と比較してやや引っ込み思案な気質のブランだが、彼女には気丈な面もあることを少年は何度も見てきた。後方で控えつつも戦いの場では得物である三又の槍を決して手放さず、防御結界や治癒の魔法で何度も姉の窮地を救い、巻き込まれた非戦闘員を治療し非難させるといった役目も彼女が一手に担っている。直接敵を攻撃する機会が少ないというだけで、戦いの場に身を晒す勇敢さを持っているのは姉と変わりない。

 

「フフッ、ありがとう」

 

ブランの頬が自然に綻ぶ。十字の浮かんだ瞳を携えた端正な顔立ちは、姉と比べ幼いながらもやはり非人間的な美しさを湛えていたが、朗らかな笑みがその人造物感を中和する。人形ながらも暖かな笑みにつられ少年も自然と笑顔になった。

 

「でも、時々こうして考えてしまうの。神様はどんな考えがあってお父さんやお姉ちゃん、私を生んだのかなって」

 

言われて少年は思いだす、姉妹と彼女らが父と呼ぶ故人は『役目』を背負わされた被造物であると自ら語ったことを。そうであるならば姉妹であることにも、片一方が劣る戦闘能力を与えられたことにも、当然創造主の意図が存在することになる。少年は頭を捻り、姉妹に与えられた『役目』から意図を想像することを思いつく。

 

「多分、ブラン達が言ってた『選ばれしもの』を育てるって役目に関係しているんじゃないのかな。育てるってことは、つまり…」

 

少し、少年は口ごもった。頭に浮かんだ仮説を披露するには、自分にとって抵抗のある言葉を口にする必要がある。別に構わないだろう、と内心に言い聞かせ再び口を開く。

 

「つ、つまり『家族』を作るってことなのかなって。人間のような家族に囲まれることで『選ばれしもの』が強く育つことに繋がるって、神様は考えたのかも」

 

「うーん?お父さんやお姉ちゃんのような強いデジモンが師匠になれば強く育つんだろうけど、私の役割は…?」

 

「『守るべき者がいるから俺は強くなれる!』」

 

ブランは少年の出した例えに合点の行かない様子だったが、そんな彼女らの間に割って入るデジモンが一人。所用で二人を待たせていたノワールが戻ってきたのだ。

 

「ノワールさん、今のは?」

 

「父さんが昔言っていた言葉よ。最初に聞いた時はなんだかピンとこなかったけど、今ならよく分かるわ」

 

そう言ってノワールはブランと少年を抱き寄せ、頬を寄せる。不意の行動に二人は虚を突かれたが、構わずノワールは語り出した。

 

「父さんがいなくなって、私一人でもブランを守らなきゃって思うとね、自分でも驚くほど力が湧いてくるの。ブランだけじゃない、あなたや…」

 

ノワールは少年に視線を向けた後、顔を上げて周囲を見渡す。3人が今滞在しているのは戦火を逃れたデジモン達が作った小さな集落だ。成長期や幼年期のデジモンの割合が高いが、皆活き活きとした表情で村づくりを行っている。

 

「みんなの笑顔を守ろうとするから私は頑張れる。そんな風に、『選ばれしもの』にとっての『守るべき者』になることがブランの妹としての役目なんじゃないのかしら」

 

「うーん、そうなのかな…?」

 

ブランは姉の出した結論に少し不服そうな顔をしていたが、すぐに気を取り直し、

 

「じゃ、私の『守るべき者』はこっち!」

 

そう言って少年を抱き寄せ、姉が自分にやるように顔を胸に埋めさせた。

 

「はーい、守られまーす!」

 

「えー即答?ちょっと情けなくなーい?」

 

「どーせ僕は二人の探している『選ばれしもの』じゃないしー」

 

シスタモン姉妹は最初から彼が『選ばれしもの』ではないことを確信しており既にそれを告げていた。使命を背負い創造された故か、彼女らにはそれを見分ける直感とでもいうものが生まれつき備わっていたのだ。姉妹の使命の話を聞いた時、少年は期待を抱かなかったわけではなかったので『選ばれしもの』でないことを告げられた時は軽いショックを受けたが、直ぐに気にならなくなった。むしろ、気負いなく姉妹と旅を共にできると前向きに捉えていた。

 

シスタモン姉妹との旅路は、危険で恐ろしい思いをすることもあったが、二人と行動を共にすることで得られる喜びがそれを遥かに上回った。姉妹は美しく、強く、正義を尊び、何より優しく、少年が初めて心を許せると感じた人物だった。リアルワールドへ帰る方法を求めて旅をしているという名目だが、少年は決して口には出さなかったものの、リアルワールドで待つ『家族』に良い思い出がない彼はこの旅路が永遠に終わらないことを願い始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(10)

 

 

 

「『守るべき者』を汚してしまうのって、とても気分が良いの」

 

息が噴きかかるほどの至近距離で、ノワールは呟いた。漆黒のクロブークが月のない闇夜に溶け込み、端正なデスマスクだけが暗闇に浮かんでいるようで恐ろしいと「ブラン」は思った。暗闇の中でも彼女の十字架を湛えた瞳は妙にはっきりと見えて、十字架に重なるように映り込んだ自分の顔すらよく見える。その顔は怯えと嫌悪に歪み切っていた。

 

「私の心はいつも張り裂けそう。父さんから受け継いだ…いえ、生まれ持った『使命』と『正義』を果たし貫き通すことを考えると苦しくて苦しくて仕方ないの」

 

細い指が「ブラン」の胸の上を這った。人肌よりは冷たく、しかし金属よりは暖かいと評すしかない奇妙な触感が素肌を撫でる感触に「ブラン」は身を震わせた。クロブークを除くすべての衣服は肌の上に無く、今はシーツ代わりに草の上に敷かれている。これもノワールの命令だ。抵抗すれば力づくにでも脱がされ、汚れ擦り切れた服の後始末をやらされる事は分かり切っていたので言われるがままに脱いだのだ。

 

「でもね、『使命』も『正義』も捨てられないのよ。放棄して自由に生きようとしても、自分の中身が空っぽになって何者でもなくなったような不安に耐えられないのよ。『正義の味方』は辛くてしかたないけど何者でもない自分は耐えられない。おかしな話でしょ?」

 

ノワールの唇の端がつり上がり、卑屈な笑みを形作る。彼女もまた、既にクロブーク以外の修道服を脱ぎ捨てていた。露わになった裸体は成人女性らしい起伏を形作っていたが、随所に球体関節が剥き出しになっており、着衣時と違い人ならざる存在であることが一目瞭然となっている。そうやってさらけ出して尚、不気味さが逆にある種の美しさを醸し出していた。結局のところ、この異常な状況化では美しければ美しいほどに「ブラン」の恐怖を煽りつづけるのだが。

 

「だから『正義の味方』を続けながらこうしてね、絶対にやってはいけないことをするの。そうするとなぜか心がスッと楽になるのよ」

 

己の犯した過ちを滑らかに語り継げるノワールだがその声色には一切の後悔が伺えない。懺悔の意図など微塵もない。この悪辣な寝物語は組み敷いた人物を苛むために囁かれているのだ。

 

「私の『守るべき者』…か弱い存在、小さなデジモン、何よりも私が守らなきゃいけないもの…私の大事なただ一人の『妹』を汚すの。そうする事で私は明日も『正義の味方』でいられる。あなたのおかげよ、ブラン。あなたがいるから私は頑張れるの」

 

顔をそむけた「ブラン」の顎を手に取って無理矢理こちらを向かせると、ノワールは『妹』の唇を奪おうと顔を寄せる。しかし触れ合う寸前、「ブラン」が叫んだ。

 

「ノワールさんやめてっ!僕はブランじゃないっ!」

 

瞬間、乾いた音が響いた。呼応するかのように雲がずれて月明かりが「ブラン」を照らす。その裸体に球体関節は見当たらない。頬を張られ涙を流す瞳には十字架の模様はなく、クロブークの隙間から除く髪色はシスタモン・ノワールとは一致しない。月明かりに照らされた「ブラン」の裸体は人間と相違なかった。

 

ノワールの視線は「ブラン」ではなく平手を見舞った自らの掌に注がれていた。その掌は、表情が消えた美貌の代わりに怒りを表明するかのように激しく震えていた。その震えが止まる頃にはまた雲が月明かりを隠し、夜の闇が互いの体のディティールを覆い隠す。やがて一拍の沈黙を置いて、ノワールは抵抗する『妹』の体にまた覆いかぶさった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(04)

 

 

 

シスタモン・ブランが死んだ。

 

 

 

致命的な瞬間は、スコピオモンと呼ばれるその名の通り蠍を模した姿のデジモンと戦った時に起こった。本来の生息地である砂漠から大きく離れた山岳地帯に現れたこの『悪』に組みする凶蟲は『完全体』でありノワールよりも一段階、ブランとは二段階もランク差のあるデジモンだが、姉妹は死力を尽くし互角以上に渡り合い追いつめた。敵の最大の武器である尾の毒針による攻撃を可能な限り引きつけ、それをブランの防御結界で受け止め大きな隙を生じさせノワールが止めを刺す。その連携は油断も慢心も無く実行され凶蟲は討伐された。しかし、防御結界『プロテクトウェーブ』に食い込んだ猛毒針『ポイズンピアス』の切っ先は、結界の発生源である槍を握るブランの手を僅かに引っ掻いていた。神経データの伝達速度よりも速く全身に回ると噂され恐れられたウイルスプログラムは、触れ込み通りにブラン自身が刺されたことを自覚するよりも早くその構成データを粒子に分解していく。外骨格の隙間からデジコアを撃ちぬかれ崩れ落ちたスコピオモンの亡骸が粒子と化すよりも早く、ブランは衣服と得物を残してこの世から消え失せてしまった。

 

彼女が他人に与えた多くのものに見合わない、あっけない人生の幕切れ。少し離れた場に避難して戦いを見守っていた少年は、あまりの理不尽さに最初何が起きたか理解できなかった。『中身』を失い平たくなった修道服の前でノワールが絶叫し慟哭するのを見てようやく我に返り、そして沸き立つ絶望と悲しみのままに彼も泣き喚いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(11)

 

 

 

シスタモン・ノワールは死に瀕していた。

 

 

 

オロチモンと呼ばれた『悪』に組みする八首の大蛇は、その外見に反映された日本神話のデータに倣い生贄を差し出すことを弱いデジモン達に要求し、人身御供を選ばざるを得ない立場に追い込まれた者達の阿鼻叫喚を眺めて楽しむ邪悪な完全体デジモンであった。『正義』のために討伐を買って出たノワールは「ブラン」と共に生贄に紛れ、オロチモンの不意を打ちその首の一つを吹き飛ばす。だが首尾よく行ったのはそこまでであった。

 

オロチモンはノワールの獲物が拳銃であることを目に留めると、発砲の瞬間に濃厚な酒気を含んだ吐息を七つの首から吐き出し辺りに充満させたのだ。マズルフラッシュが高濃度のアルコール成分に引火し周囲の草木に燃え広がった。火の海が視界を覆い、ノワールは劣勢に立たされる。視界の悪さだけでなく、デジモンの肉体ならば突っ切れなくもない程度の火勢も、同行していた「ブラン」にとっては通行止めとして機能し、おまけにアルコールの匂いに煽られて足元がおぼつかない。他の生贄達はノワールが牽制している間になんとか逃げおおせたが、「ブラン」は『姉』の背から離れないようにするだけ精いっぱいであった。申し訳程度に持ち歩いていた得物は、混迷の中で落としてしまいどこにあるのか見当もつかない。

 

「ブランには傷一つつけさせないからね!」

 

ノワールが自らを鼓舞するように叫んで、火の壁の向こうから迫りくる大蛇の首に拳銃のグリップエンドを叩きつける。一見無謀に思えるサイズ差があるが、彼女の体を丸のみに出来そうなほど太い大蛇の首は衝撃で反れ、もんどりうって炎の向こうへ引っ込んでいく。シスタモン・ノワール『覚醒体』。クロブークを目深に被り目元を覆う覆面に変形させたその姿になることで、激しい消耗と引き換えに全ての戦闘能力を大幅に引き上げる。姉妹の、今は『姉』だけが持つ奥の手だった。

 

炎が揺らめき、その向こうに何か長大な影が持ち上がる。再び首が迫ってくることを予期にノワールが銃を振り上げるが、炎を割いて現れた切っ先を目にして血相を変えた。

 

「伏せて!」

 

「ブラン」がその悲鳴のような命令を理解するよりも早く、その体が突き飛ばされる。地に伏せた彼女の頭上を突風が撫でる。何か長大なものが通り過ぎて行った。恐る恐る身を起こすと、炎に包まれていた視界が晴れておりオロチモンの全体像とその尾の先端から伸びる長大な白刃が露わになっていた。その刃『アメノムラクモ』が火のついた草木を薙ぎ払い鎮火させたのだろう。無論オロチモンは消火の為に自らの持つ最大の武器を振るったのではない。

 

「ノワッ…!」

 

「ブラン」は言葉を失った。自身の回避は間に合わなかったのであろうノワールの太腿から下が、自分の傍に転がっていた。支えを失った体は少し離れた場所、火の燻る草むらの上だ。痛みに荒い息を付きながらもなんとか身を起こそうとし、闘志をまだ失ってないことが伺える。しかしその命運はもはや風前の灯火であることが戦いに長けてない「ブラン」自身にも明らかであった。両脚を切断されまともに移動できなくなったこの状態と、酒気への引火をチラつかされて銃を封じられたことが合わさって詰んでしまっている。そしてノワールのドン詰まりは、そのまま「ブラン」のドン詰まりも意味している。絶望に「ブラン」は顔を覆った。

 

オロチモンの首が一本、二本と順を追ってノワールに迫る。またグリップエンドを叩きつけて応戦していたが、その場から動けない身では多方向からの攻撃に対応しきれず、ほどなくして首の一つがノワールの体を噛み加えた。そしてオロチモンはそのまま一息に噛み砕くような真似はせず、万力のようにゆっくりと顎の力を込める。硬質な破壊音が響き渡りノワールの人形のような体の随所に亀裂が走った。先日完治したばかりの右腕は関節が砕けたのかだらんと垂れ下がる。その惨状を見せつけるようにオロチモンはノワールを咥えた首を「ブラン」の正面に高く掲げていたが、「ブラン」はもはや悲鳴を上げる事すらできなかった。絶望の大きさのあまり、茫然自失となって呆けた顔で死に瀕した『姉』を見上げるばかりだ。

 

この反応を不服に思ったのか、オロチモンは矛先を変えた。尾から長く伸びた白刃『アメノムラクモ』の切っ先が「ブラン」の顔を軽く撫でる。途端に視界が半分になり、人生で感じたこともないような激痛が左目に走った。

 

「痛い!痛いよぉっ!」

 

左目を抑え、泣きわめきながら転げまわる。防衛本能は心を閉ざすことで絶望から精神を守ろうとしたが、激痛はその儚い抵抗を許さなかった。パペット型デジモンの手足とは違う不可逆の欠損がもたらす絶望的な痛みが、これすら序の口に過ぎない次なる苦痛と逃れ得ぬ死を文字通り痛感させる。恐怖と絶望と痛みだけが「ブラン」を満たしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(05)

 

 

 

その日、私は悲しみと不安に押しつぶされそうになっていた。いや、既に押しつぶされていたのだろう。スコピオモンと戦い妹が命を落とした場所から少し離れた山小屋の中へほうほうの体でたどり着いたが、そこで全てが限界を迎え、私は恥も外聞もなく妹の服を抱えて泣き喚いていた。デジモンが身に着けている衣服の類は肉体の一部でもあり、死を迎えれば共に消滅するのが常だけど例外もある。力あるデジモンや強い未練を残したデジモンは体の一部や武器が死して尚残り続けると言う。ブランは強い心残りがあったのだろうか。あるいはスコピオモンの猛毒の特性も手伝ったのかもしれないが、妹が残すような未練には幾らか心当たりがある。それに想像をめぐらすと悲しみと不安は無限に深まっていき、私は一層激しく声を上げる。

 

その心当たりの一つである同行者は、いつの間にか室内から姿を消していた。私に気を使って一人にしてくれたのか、それとも私のみっともない姿を見たくないから席を外したのかは分からないが。

 

みっともない。そう、妹であり自分の半身のように思っていたシスタモン・ブランを失った私は『正義の味方』の姿を維持できないみっともないデジモンだ。無辜のデジモン達を守りその助けになり…時には命の危険を一手に引き受けるには、私は父さんほど強くなかった。守り切れないかもしれない、『正義』を貫けないかもしれないという恐怖に耐えられたのは、いつも傍にいる妹の姿を、『守るべき者』の姿を他のデジモン達の姿に重ねることで、絶対に守り通すという決意を強固にすることができたからだ。その決意が今日砕かれ、『守るべき者』は失われた。

 

でも生まれた時から与えられていた『正義』も『使命』も忘れてしまうという父さんの最期の言葉通りの選択肢は選べない。父さんが亡くなった直後はそのように振る舞い、宛もない旅に出たがすぐに何者でもない自分に耐えられなくなった。『正義の味方』という鋳型に入っていない私は、誰からも顧みられることのない無価値な存在…そんな不安がまとわりついて離れない。

 

 

『鋳型』?自分が属していた立場をそのように例えた時、私の頭に一つのひらめきが生まれた。早速そのひらめきを試すべく、私は涙に塗れた顔を軽く拭うと山小屋の扉を開け、外ですすり泣いていた同行者を中に招き入れる。言い逃れできない悪事を行おうとしていることを理解している私と、その悪事を忠実に実行しようとする二つの思考が頭の中にある。奇妙な気分だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(12)

 

 

 

「ブラン…!」

 

ノワールの声には怒りと、悲しみがこもっていた。眼下に映るのは煤に塗れて白い修道服は灰色に汚れ、片目を奪われ、痛い痛いと泣き喚く『妹』。彼女が固い絆で結ばれていると信じる『妹』の痛ましい姿が、残された僅かな力を限界まで絞り出させ、覚悟を決めさせる。かろうじて動く左腕が二丁拳銃『アンソニー』の片割れを握りしめ、狙いを定めた。

 

「ブレスファイア!」

 

オロチモンがノワールを一思いにかみ砕かなかったのは単なる慢心。オロチモンは八つの首を持つが本物の首は中心のただ一つだけであり、残る七本は破壊されても再生可能なダミーに過ぎない。そのため口に咥えた獲物が抵抗して内側から頭を破壊したとしても、ダミーならば問題はない。当然、ノワールを咥えたのはダミーヘッドだ。両腕を完全に破壊しはしなかったが、本体の頭部を拳銃で狙おうとしても再度『酒ブレス』を吐き出され引火で白い方が焼け死ぬのを恐れて撃てはしないだろう。そう慢心していたのだ。

 

だから、ノワールが自らの右肩に銃弾を撃ち込むことは完全に想定の外だった。正確無比な二点射撃(ダブルバースト)がもはやまともに力の入らない右腕、その付け根の球体関節を正確に穿ちバラバラに粉砕する。袖も一緒に吹き飛び、ガラクタのようになった右腕が胴体から離れオロチモンの口からこぼれ落ちた。ノワールを咥えた口内に腕一本分の隙間が出来上がる。脱出される、とオロチモンは焦ったがそれもまた甘い見積もりであった。

 

ノワールはオロチモンのダミーヘッドの喉奥に身を躍らせた。巨大とは言え生物が自ら通ることを想定してない空間を、左腕以外の四肢を失った体を滑り込ませるように這い進んでいく。半死半生というラインすら越えた体を消化器官の中に突っ込ませる自殺行為の意味にオロチモンが気付いた時、全ては既に決していた。七つあるダミーヘッドが繋がっている一つきりしかない胴体に到達したノワールは、消化酵素に晒されながらもデジコアがあるであろう場所へ向かって何度も引き金を引く。弾が尽きれば残された腕を砕け散らんばかりの力で振り乱して体内を掻きむしり、徹底的に大蛇の腹を破壊していく。

 

 

 

 

 

 

 

オロチモンの最期は荒れ狂う大河に似ていた。文字通りの臓腑をかき回されるような痛みに悶え狂いその首の全てが先ほどの「ブラン」以上に激しくのたうち回った。木々を薙ぎ倒すその様に「ブラン」が巻き込まれなかったのは幸運と言うほかない。やがて凪が来るようにオロチモンの動きが止まり、巨体が粒子となって消滅し、草木が焼けこげ薙ぎ倒された広場には地面に突き立った白刃だけが残った。その傍らには四肢を失ったみすぼらしい人形が転がっている。

 

「ノワ…おねちゃ…」

 

おぼつかない足取りでそれに歩み寄った「ブラン」は言葉を詰まらせる。シスタモン・ノワールはかつての美しい修道女の原型は微塵もとどめていない。すらりと長い両手両足は失われ、漆黒の修道服は酸に焼かれ服の体を成していない。露わになった人形の素肌には無数の亀裂が走り今にも砕け散りそうだった。もはや破片を集めたところで修復は不可能であろう。先ほどまで自らの痛みと死の恐怖しか頭になかった「ブラン」は、ようやく『姉』として振舞っていた存在の死を意識することになった。深い悲しみと、それ以上に強い不安が重くのしかかった。

 

人間の力を遥かに超える存在が跳梁跋扈するこのデジタルワールドでただ一人。それは先ほど強く意識した死という結末が僅かに先延ばしにされるにすぎない事を意味している。行く先々でデジモン達を助けてきた彼女の『妹』という立場を前面に出せば住民たちは受け入れてくれるだろうか?社交性に自信のない自分には、彼女本人抜きで交渉を成立させるビジョンが見えなかった。そもそも、自信が何者としてここにいるのかすらおぼつかないのだ。末期の瞬間ですら、シスタモン・ノワールをなんと呼べばよいのか迷っている。

 

「顔を…顔を良く見せて…」

 

ノワールの唇が動いて、掠れた声を出した。慌ててその顔を覗き込む。

 

「大丈夫、大丈夫…安心していいわ…」

 

朗らかな笑みを浮かべ、出会った時と同じように優しい言葉を紡ぐ。死に瀕しているというのに、どこか穏やかな顔をしている。思わず涙がでた。今にも死にそうな者に慰めてもらうなんて、と情けなく思ったが、安堵の気持ちと涙は抑えられなかった。そんな情けなさを余所に、最期に伝えることがあるとばかりにノワールは言葉を続ける。

 

「…あなたの体は、もうデジモンに近くなっているはず」

 

安堵の気持ちは、どこかへ消え失せた。言葉の意味を反芻し理解しようとするのを待たず、残された時間の少ない者は語り続ける。

 

「デジモンの服を着続ければ…デジモンと交わり続ければ…そうしていればあなたの体はデジモンに近づいていく…理屈はないけど、そんな直感があったの…実際に試してみて、最近はその兆候も感じられたわ…」

 

ふと、ノワールの瞳、シスタモンと言う種特有の十字架の浮かんだ虹彩に映るものに気付く。煤で薄汚れたクロブークを被り、左目を失い、そし困惑の感情を浮かべた自分の顔。それと目が合った時、鏡映しになったその顔が愕然としたものに変わった。

 

「…あなたは自由よ…私たちの『正義』も…『使命』も…引き継ぐ必要はないわ」

 

表情の変化が見えていないのか、見えているが無視しているのか、構わずノワールは喋り続ける。彼女の『父』の末期の言葉をなぞったその台詞は、先ほどの告白と少し違う現実感のない空気を纏っているように感じられた。

 

「最後にお願い、『お姉ちゃん』って呼んで…」

 

ノワールはそこまで喋って、ふう、と苦し気に息を付いた。瞼も閉じかかり虚ろな様子で、今にも眠ってしまいそうだ。死者の世界に首元まで浸かった彼女には、生者の問いかけに明瞭な回答を与えられるような猶予は無いことは明らかだった。

 

「…」

 

言葉に詰まり、彼女を見つめ返す。十字架で彩られた虹彩は怖いぐらい澄み切っていて、こんな時でも美しかった。しかし生気は感じられない。命尽きようとしているのだから当たり前なのかもしれないし、そもそも彼女はパペット型なのだから最初からこうだったのかもしれない。どちらにせよ、その生気のなさは自分を見つめ返しているようにも、そうではないどこか遠くを見つめているようにも感じられた。

 

僅かに、しかし当人にとっては永遠にも思える時間の間逡巡した末、シスタモン・ノワールに呼びかけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――――『お姉ちゃん』」

 

 

 

 

 

 

「…ありがとう、ブラン」

 

僅かに微笑み、ノワールは瞼を閉じその生を終えた。ひび割れた顔に滴り落ちる涙の雫が、彼女が最後に感じたものだったのだろう。その肉体も、僅かに残った衣服も、トレードマークのクロブークも一つ残らず粒子となって崩れ去り、風に吹かれて舞飛んで行った。

 

 

後には、残った右目に十字架を湛えた、かつて人間の少年だったものが一人残された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(06)

 

 

 

「シスタモン・ブラン」が私の前に立っていた。正確にはブランの遺した修道服を着た人間の少年。私と妹の種族は一見した見た目はほぼ人間同様であり相違点たる球体関節も服を着ていればほぼ見えなくなる。背格好の似たこの子に着せれば外見の八割がこれで一致。残り二割の相違は顔に集中している。中性的な顔立ちだから女の子の服を着ていても違和感はないけど、だからと言って私やブランに似た顔と言うわけでもないし髪の色も違う、なにより私の種族の特徴である瞳に入った十字架の模様がない。そもそも外見がどれほど一致したところでこの子はデジモンではなく人間に過ぎないし、ブランのように結界も治癒魔法も使えない。武器である三又の槍も、人間の子供の腕力では持ち運ぶくらいは出来ても満足に振り回す事も出来ないでしょうね。シスタモン・ブランの形だけ取り繕うとしたハリボテ。それが目の前に立っているものを正確に評した言葉になるのを、私は理解していた。

 

でもその形ばかりでも取り繕われた物体が今の私には必要だった。「ブラン」の姿がそこに在るだけで胸にぽっかりと開いた大きな穴が幾らか埋まっていくのを感じられ、悲しみや不安が和らいでいく。眼前に、旅路を歩むときの隣に、戦場の中の背中に妹がいない。その地獄に比べればどんな不出来な似姿でもそこに在るだけで価値があると確信できた。感極まって、私は「ブラン」を抱きしめる。腕の中の「ブラン」は少し驚いたような反応を見せたが、何も言わず無言で抱きしめ返してくれた。いい子だ。私を哀れに思ったのか、いきなりブランの服に着替えてくれと頼んでも拒否したりせずに従ってくれた。守りたいという気持ちがこみあげてくる。そして私は「ブラン」とひとしきり抱擁したあと、野営用に携帯していたマッチを擦ると、それを床の上に脱ぎ捨てられた人間の服の上に落とした。

 

「ノワールさん何をっ!?」

 

淀みなく行われた私の一連の動作に「ブラン」は何が起こったか分からず一瞬茫然とし、我に返ると服の上に広がる火を踏み消そうと駆け寄った。駄目よ、あなたの服に焦げ目がつくじゃない。私は「ブラン」を羽交い絞めにして火から遠ざけた。

 

「離して!離してっ!」

 

人間の服が燃え落ちてどんどん原型を失っていくのに比例して、『妹』の表情が絶望に染まっていくのが見えた。頭の片隅のもう一つの思考が、お前は恐ろしいことを、やってはならないことをやっているのだと囁いていた。積み上げてきたものを叩き崩す行為だと非難する。その道徳感と行為の落差から生まれた暗い悦びが、私の胸に空いた隙間の残りを満たしていく。

 

「ねぇ」

 

「ブラン」の、『妹』の、守るべき者の首に私は手を掛けた。

 

「これからは『お姉ちゃん』って呼んで?」

 

軽く、ほんの少しだけ力を込め成熟期デジモンの力ならその首を折るなんて簡単なことだと言外に示してあげた。力で他人を従わせるのは、思いのほか気持ちいい。

 

私が私を保つ為にこの子を『シスタモン・ブラン』の鋳型に入れてしまおう。ブランの服を着せ、ブランと呼び続ければ中身がどうであれそれはシスタモン・ブランだ。私の妹だ。そうやって無理矢理型に押し込むことは妹にとって痛みを伴うだろうけど、『守るべき者』を汚すことで私は活力を得られると確信できた。これは私が『正義の味方』を続ける為に必要な行為だ。それはやがておぞましくエスカレートしていく予感が、いや確信がはっきりと感じられたけど、それを躊躇う気持ちは私の中のどこにも見当たらなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(13)

 

 

 

あの日、死にゆくシスタモン・ノワールを他人ではなく『姉』として呼んだことで自分は決定的に人間でなくなった。かつて人間の少年だったものはそう思えてならなかった。

 

しかし、自分があの姉妹の妹、『シスタモン・ノワールの妹のシスタモン・ブラン』に変じたと規定するのもしっくりこない。一人きりになり、『守るべき者』のいない自分は『正義の味方』にもなれず、他のデジモンの目を避けつつ目的もなく風に飛ばされる綿毛のようなフラフラとした半生を歩んだ。そうしている内にいつの間にか修道服は完全に灰色になり、クロブークに付いた動物の意匠は何故か兎から鼠に変わっていた。修道女のような服装と十字架の浮かんだ瞳はシスタモンという種の特徴に合致しているが、それ以外の特徴はブランともノワールとも合致していない。自衛の為の獲物も拳銃や槍ではなく刀を使っている。

 

シスタモン姉妹とその『父』に課せられた本来の使命、『選ばれしもの』を探し鍛える使命については、それを積極的に受け継ごうとはしなかったのだが、出会ってしまった。姉妹が言っていた『選ばれしもの』を見つけ出す直感は自分にも受け継がれていたようで、旅先でたまたま出会った彼がそれだと一目で悟った。名はハックモンと言った。少し話をしてみると、彼も宛もない旅路を続けていたので、旅の道連れに誘ってみると二つ返事で引き受けてくれた。なるべく人目を避けていたのに唐突に他人を誘ったことに大した理由はない。しいて言えば、『選ばれしもの』を見つけたのに何もコンタクトを取らないのは何か勿体ない、と感じただけ。こうして『選ばれしもの』ハックモンを傍に置いた事で、やはり自分はあの姉妹の使命を受け継ぎ彼女らに準じた存在になったのだろうか。

 

「でも、なんか違う気がするんだよなぁ」

 

傍を共に歩くハックモンの、目深に被った濃紺色のフードを眺めながら呟く。それが耳に入ったのか、彼は不思議そうにこちらを見上げてきた。漆黒の体に濃紺色のフードを被って顔や体を覆ったハックモンの姿を眺めていると、彼を『選ばれしもの』と見定めたはずの直感がわずかな違和感を投げかけてくる。

 

「いや、なんでもない。こっちの話」

 

そう言うとハックモンはそれで興味を失ったのか、視線を前方に戻した。旅の道連れと言ってもこうして一緒に歩いているだけで、お互いに密な付き合いをしているわけでもない。『選ばれしもの』を見つけ出すだけではなく鍛え上げるというところまでが使命のはずであったが、『家族』はもちろん『師弟』と言うにもほど遠い間柄である。ハックモンに感じる謎の違和感も合わせると、自分は姉妹から役割を受け継ぎ果たそうとしているとは言い難い、中途半端な状態にあるのだろうと思えてくる。

 

人間ではなくなった。しかしシスタモン姉妹と肉体の面でも立場の面でも完全に同一になったわけでもない。中途半端な灰色の存在。それが自分なのだろう。

 

 

 

かつて人間の少年であった者――――――シスタモン・シエルは、幸福こそ感じておらず、大きな喪失感を内に抱えていたが、その心は波風の立たぬ静かな湖畔のように平穏であった。それ故にこの灰色の状態を良しとして、目的も無く風に流されるような旅路を続けるのであった。

 

 

 

E N D

 

 

 

戻る