「デジモン反応確認!」

オペレーターの声よりも一呼吸送れて、警報の音が鳴り響く。清潔感の溢れる白亜の壁と床。それに囲まれた空間に集まった彼らの視線が、空中に浮んでいるスクリーンの中でももっとも大きなものに集まった。

スクリーンに映るのは細長く、やや反り返った形状の島国。その地図の上を慌てふためく子供のようにポインタがせわしくなく動いている。そしてたっぷり30秒ほどかけて島国の丁度真ん中、アーチの頂点の付近に落ち着くとその辺りの地図を拡大し、町の地図をスクリーンいっぱいに映しだした。

「種族特定完了!ピピスモンです!数は正確に判別できませんが単体ではありません!複数リアライズした模様!」

空中に浮んでいたスクリーンの一つが地図を写していたスクリーンのそばまで移動し、オペレーターの台詞の中に出てきた「ピピスモン」の映像を写した。

「そんでもってまた出現したポイントは正確に特定できないって分けだな?」

一人が苛立った声でオペレーターの発言の続きを言った。町の地図は「ピピスモン」が出現した可能性のあるポイントを示す赤い円で埋め尽くされていた。端から端までの距離は一キロ以上あるだろう。

「『ダウンローダー』はすぐには使えそうか?」

先ほどの苛立った声とは対照的な、落ち着き払った声がオペレーターに向けられた。オペレーターは先ほどの声ほど感情を露にしていないものの、焦燥が感じられる声で返した。

「起動まであと三分はかかります!『向こう』へ着くまでの時間も今日の調子じゃ更にその倍は…!」

オペレーターの言葉を聞き、その場にいた者達はオペレーターを含み全員が歯噛みをした。ただ一人、先ほどオペレーターに支持を出した人物を除いて。周りの者達が焦燥に駆られている間も今目の前で起こった事態にいかに対処するか考えていた彼は、即座に決断を下すことが出来た。

「向こうへ送るのは一人だ。一人でいい。それならば立ち上げる時間は兎も角、転送速度は3人や2人のときよりも速くなる」

「え、ホント?相手は一人じゃなくて複数だよ?大丈夫?」

彼の言葉に答えたのは少し困惑した様子で答えた女性の声だった。素っ頓狂な作り話を聞いたときのような調子の返答に彼は自信に満ち溢れた様子で言葉を紡ぐ。

「お前達ならば成熟期クラスなら多少の数の不利は問題ではないはずだ。行ってくれるな?」

言葉の途中で彼は視線をそれまで一言もしゃべらなかった者に向ける。視線を向けられた人物は瞬時に自分に求められているものが何かを悟った。自分達が最優先すべきはリアライズされたデジモンの手から人間達を守る事である事だと。もっとも素早く、空中戦に秀でた自分がピピスモン達の手から人間達を守るには一番適していると。すぐさま自分に命令した人物に向き直って敬礼の姿勢を取り、答えた。

「シールダーズ隊員ダルクモン!人間達を守る為にリアルワールドへ出撃します!」









Scarlet Hero

“夏休みの1日目”

天使型デジモン ダルクモン
突然変異型デジモン ピピスモン
登場







夜の学校に忘れ物を取りに行った生徒は必ず怪異に遭遇する。

マンガ・アニメ・ドラマ等の世界では絶対的に守られているそのジンクスがずっと彼の頭の中を支配していた。その強迫観念とそれを誘発している、重く圧し掛かってくる暗闇の重圧に耐えながら彼は自分の教室、1−Aの扉をくぐる。矢張り見慣れたこの教室も廊下や階段同様、昼間とは明らかに違う異様な空気が支配していた。12時間ほど前は、明日から…実質的には今日の午後から始まる40日の休暇を前にした生徒達が嬉しそうに騒いでいたのに比べると信じられないほど静かであった。平坦で上には何も乗っていない(傷一つ無いものは皆無だが)机が整然と並び、鞄だけでなくすべての学習道具が持ち帰られ単なる空洞になったロッカーが整然とたたずんでいた。冷房が切ってあり窓も締め切ってある校舎の中は蒸し暑く、事実今は汗だくのはずなのに何故か『寒い』と感じてしまうほど、月明かりが差し込んだ教室の色彩は冷たく感じられた。静と動。重と軽。寒色と暖色。月と太陽。光と闇。日常と非日常。同じ場所なのに受ける印象は恐ろしいほど対照的で、両極端だった。

いつの間にか電気のスイッチに伸びていた手を慌てて引っ込めると、彼は自分の机に向った。廊下側から3列目、前から4番目。それが彼の机だった。恐る恐る机の中に手を突っ込み、中をさぐる。そして指先に「それ」が触れたとき、彼の表情がぱぁっと明るくなった。机のなから引っ張り出されたそれは、二つ折りになった白い厚紙だった。そっけない、無機質で事務的な印象を与えるその厚紙には「泉戸 緋色(いずみど ひいろ)」と彼の名前が書いてあった。

「よかったぁ、通知表誰かに持ってかれてなくて…」

緋色は安堵の吐息とともに校舎に入ってから初めての言葉を漏らした。怖い思いをしてまで学校へ来た甲斐があった。これでいつも真夜中に帰ってくる父親に怒られないですむと安堵し、緊張しきった身体を休めるかのように無意識に自分の椅子に腰を下ろしていた。半日前まではこんなに早く再びこの椅子に座る時がくるなんて思わなかったな、などと考えながら緋色は教室を見回していると、いつの間にかさほど恐怖を感じなくなっている事に気づいた。無事通知表を見つけて安堵している所為もあったが、自分のよく知る光景とはあまりにもかけ離れていて異世界のようにも感じられた夜の教室に、『自分が忘れて言った通知表』という昼間との確かな接点が見つかったおかげでここは自分のよく知る場所であるという実感が生まれたのが一番の要因だろう。

ふと好奇心に借られ、緋色はクラスメイト達の机を一つ一つ覗いてみようという気になった。好奇心以外の理由は何もないもない。ただ人の机を堂々と覗ける機会など滅多にないし、今の時期ならみんな机の中身はみんな持って帰ってしまって見られて困るものなどないだろう、と考えていたらついそれを実行してしていた。案の定、ほとんどの机は空っぽであったが、男子の机にはたまにクシャクシャになったプリントが奥に突っ込まれているものも見つかった。中には緋色同様、通知表を忘れている者さえ一人いた。さすがにチラッと覗いて中身の有無だけを確かめるだけに留まっていたのでプリントも通知表の中身も緋色は見ていないし手をつけてもいない。だがより深く、この場所は確かに自分のよく知る教室であり異世界じみた場所ではないと確信できたので帰りの足取りは行きよりも軽かった。

校舎を出たところで買ってもらったばかりの携帯電話を開くと、数分前に午前零時を過ぎており、日付が変わっていた。7月22日。夏休みの1日目であり、緋色にとっては13回目の誕生日である。昔両親から自分が生まれたのは日付が変わった直後だと聞いたから今から丁度13年前のこの時間に自分が生まれたことになるのか、と少し感慨深い気分になりながら緋色は携帯電話の画面を見つめながら歩いた。明日…いや今日は友人達の奢りでカラオケに行く事になっている。緋色の父はほんの数ヶ月前まで小学生だった自分達だけでカラオケに行く事に反対していたが、隣近所に住んでいる緋色が幼い頃から世話になっていた大学生の姉さんが付き添ってくれることによって渋々納得してくれた。その普段は仕事で滅多に一緒に食事をする機会のない父も、この日の為に休みを取ってくれた。昼は友人達とカラオケで盛り上がり、夜は父と外食。考えるだけでいまからワクワクして、歌の一つでも歌いたい気分だった。13回目の誕生日も素晴らしい一日になるのだろうと確信し、早めの誕生日プレゼントである携帯電話の「7月22日 0:13」という表示を見ながら、真夜中だというのに意気揚々と緋色は歩いていく。そのときだった。

 

 

ヒュッ

 

 

不意に携帯電話の「7月22日 0:13」という表示が消えて、緋色は足を止めて首を傾げた。バッテリーがなくなったのか?そういえば残量が残り僅かだったような気がする。緋色が最初に思った事はそれだったが、単なるバッテリー切れでは済ませられない、妙な違和感を感じていた。違和感が気になり、足を止めて考えているとすぐに違和感の正体に気づいた。


ああ、開いた携帯電話の蝶番から上が綺麗になくなっているからか。

 

「え?」

違和感の正体に気づいてから『異常事態』が起こっていることに気づくまで、緋色の思考は一瞬停止した。「携帯電話が切断される」という状況に繋がる事象は周りには何一つなかったからだ。バグを起こして停止したゲームのキャラクターのように止まっていた緋色の思考を再び動かしたのは、背後から吹きつける強風と、奇妙な金切り声だった。今まで聞いたこともないような声に思わず振り向くと、信じがたい物体が目に飛び込んできた。大きな耳と口を持った大きな顔。紺色の体毛に包まれた細長い手足と尻尾、それの先に着いた鋭い金属性の鎌。羽ばたき、思わず目を瞑ってしまいそうになるほどの強風を起こす蝙蝠のような羽。緋色よりも一回り以上大きい見たこと無いような生物が、確かに空を飛んでいた。

緋色は絶叫した。そして一目散に走って逃げ出した。その生物が笑ったからだ。目を細め、口の端を吊り上げ、前脚に付いている鋭い釜を振りかざしてきたからだ。何も考えず緋色が走り出した先は、運の悪い事に校庭のグラウンドだった。進行方向には身を隠したり盾になるような建物はどこにもない。それに気づいた頃には追ってくる謎の怪物の羽ばたきの音が背後に迫っていた。強風に煽られるように緋色は倒れた。羽ばたきの音が頭上で止まる。思わず頭を両手で庇う。無意味な抵抗だとかそういう事を考える暇もなく、口が勝手に叫んでいた。

「助けて―――――――っ!!」


「バテール・デ・アルーム!!」

 

間髪いれずに呪文のような叫びが返ってきて、緋色は頭を抱えて伏せたまま呆気に取られた。声は力強かったが明らかに女性の声であり、あの怪物が発したものとは思えなかった。恐る恐る顔を上げると、緋色のそばに何かが落ちた。紺色で毛むくじゃらで細長くて、先端に金属の鎌の付いている物体…あの怪物の尻尾だ。それに続けて四肢や細切れになった胴体、羽や真っ二つになった頭が落ちてきた。それらが落ちてきた方向、先ほどまであの生物がいた頭上を見上げるとそこには予想だにしなかったものが存在していた。緋色はそれに目を奪われた。鎧や無数のベルトと装身具を素肌の上に直接身につけ、赤い帽子をかぶり、金色の仮面で目元を隠した女性。それだけならばアニメやゲームキャラの仮装を、コスプレをしただけの女性と思いそう驚くことはなかったかもしれない。それはまた別の意味で異常ではあるが。

しかしその女性はあの生物と同じように宙に浮いていた。背中から生えた四枚の金色の翼を夜風にたなびかせながら、宙に浮いていたのだ。天使、あるいは女神のようにも見える彼女の姿は緋色の視線を吸い付けて離さなかった。

「…人間よ」

「は、はい!?」

女性が口を開いた。聞いたことも無いような凛とした声に、思わず背筋を伸ばして地面にへたり込んだまま上半身だけ気をつけの姿勢をとってしまった。その姿勢をとった後で今の姿の珍妙さに気づき、恥ずかしくなったが女性は構わず二の句を続けた。

「新手が来ている。早く逃げた方がいい」

そう女性が言うか早いか、何処に潜んでいたのかは分からないが二匹目が、あの怪物がもう一匹飛来し後ろから女性に襲い掛かった。

「あ…!」

緋色の口から「危ない」という言葉がでかかったが、それは途中で飲み込まれた。女性は腰の後ろに交差してくくりつけられた鞘から二本の長剣を抜き、裏拳の要領で二本の剣の柄を相手の鳩尾に叩き込んだ。謎の生物はゲホゲホと咳き込みながら後退した。

『リアライズリミット算出完了。残リ180サイクル』

突然、合成音声の声がグラウンドに響いた。同時ピッ、ピッという断続的な電子音が流れ始める。そこ緋色は初めて女性の腰の横に、小さな機械がぶら下げてあるのに気づいた。赤と白のツートンカラーで小さな液晶画面の付いたそれは、緋色が小学校に上がるか上がらないかと言う頃に流行っていた携帯ゲーム機か、あるいはポケベルというものに似ていた。電子音にあわせて液晶の画面が赤く点滅している。

「貴様らを探すのに少し時間を掛けすぎたか。だが180サイクルあれば貴様を倒して帰還するには十分だ」

緋色には女性の言葉の意味がさっぱり分からなかったが、相手をしているあの怪物は理解できるのかその言葉を聞いた途端踵を返し、高く飛びあがる。逃げようとしているのだ。

「逃げ切れると思うな!」

女性も四枚の翼を羽ばたかせ飛翔する。あっという間に追いつき、怪物の表情が歪んだ。四肢の鎌を我武者羅に振り回して女性に襲い掛かったが、女性は二本の長剣を使ってそれらを防いだ。防いでいるだけではなく、逃げ出す隙さえ与えていない。

夜の学校に忘れ物を取りに行った生徒は必ず怪異に遭遇する。

緋色は再びそのジンクスを思い出しながら、校舎の屋上よりも高い場所で戦う二つの「非日常」をグラウンドから呆然と見上げていた。あの怪物はなんだ?蝙蝠?違う、そんなはずが無い。前足があるしどう見ても人工的に作ったとしか思えない金属性の鎌が体の一部になっている。そんな生き物は世界中の何処にもいないし、そもそも緋色はあんな大きさで空を飛ぶ生物を緋色は知らない。該当するといえば、マンガやアニメ等に出てくるモンスターが一番近い。ふとそばに落ちているはずの一匹目の怪物の尻尾に目を向けたが、そこにあるはずの尻尾はなくなっていた。他の四肢や胴体の破片も同様に消えていたが、真っ二つになった頭部は片方だけ残っていた。ただし、断面から黒い粒子を噴出しながら消えていく途中の状態で。そしてそのまま完全に消えてしまい、後には何の痕跡も残さなかった。

「なんだよ…これ…?」

巨大な蝙蝠のような怪物。天使か女神のような女性。そして跡形もなく、痕跡もなく、まるで最初から存在していなかったかのように消える怪物。夜の教室の非ではない「非日常」がこのグラウンドを支配していた。パニック状態ではない、少し落ち着いた状態でそれをあらためて眺めるとわけも分からず呆然としてしまった。

先ほど女性の腰にぶら下がっていた機械が「残り180サイクル」を告げてから一分も立っていない。その間の茫然自失。しかし、それが緋色にとって命取りとなった。

 

 

ザクリ

 

 

「え…?」

そう、文字通りの命取り。

夏服の白いワイシャツが左肩口から赤く染まっているのに気づいた。何気なく振り向くと、そこにあったのは空中にいるはずの怪物と同じ顔と、左肩口に突き刺さった鎌だった。三匹目の怪物。そいつは限界まで吊り上げた口の端と、限界まで細めた瞼を崩さぬまま一気に鎌を下ろした。皮膚を、筋肉を、肩甲骨を、肋骨を、内臓を引き裂き鎌は肩口から腰付近まで達する深い傷口を作る。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」

形容できないほどの痛みに自分でも信じられないほど、人間の声に聞こえないほどの絶叫を緋色は上げる。生物としての本能が身体を動かし、逃げようと緋色は立ち上がる。それすらも許さずに怪物は鎌をふるって両足のアキレス腱を断ち切り転ばせる。そして転んだ際に仰向けになった緋色の腹と旨に何度も鎌を振り下ろした。

「貴様っ…!!」

空中で二匹目と戦っていた為に三匹目が緋色に接近するのを許してしまった女性は、二匹目の相手をやめて地上へ向って急降下する。そして彼女はすぐに気がつくことになる。自分の判断ミスに気を取られるあまり、今しがたまで戦っていた相手に背を向けるという更なる判断ミスを誘発してしまったことに。

「クレイジーソニック!」

「クレイジーソニック!」

二匹の怪物達が初めて言葉らしい言葉を叫んだとき、彼らの大きな口からリング状に広がる光が放たれた。小刻みに振動するその輪は視覚化された超音波の軌跡であり、それ自体に殺傷能力はない。だがその光の輪の中には収束された超音波の帯が通っているのだ。

「アァァァァァァァァァ!?」

まず背後から「クレイジーソニック」の直撃を受けたところに更に地上からもそれをあびせられ、超音波に挟み撃ちにされた女性は剣を持ったまま手で耳を塞ぐが、三半規管や脳へのダメージを防ぐにはその程度では気休めにしかならなかった。超音波の物理的振動で鎧の一部が砕けベルトの数本がはじけとび、両手に握られた剣にヒビが入り、腰からぶら下げた機械の液晶画面が割れて弾けた頃、女性は身を空中に止めていくことが出来なくなり落下していった。それをみて怪物達は「クレイジーソニック」を放つのを止め、落ちていく女性に鎌を振り上げて向っていく。10メートル、5メートル、3メートル、2メートル、1メートル…鎌の切っ先が女性との距離を詰めていく。

あのまま「クレイジーソニック」を打ち続けていれば彼らの勝利は確実であっただろうが、何故か彼らはそれをしなかった。おそらく鎌で相手をしとめることに拘りでもあるのだろう。それが命取りになるということを、彼らは考えたことがあるのだろうか?

「…今だっ!」

鎌の切っ先が女性の体を八つ裂きにしようとした瞬間、身を捩って鎌を寸前でかわし、女性は落ちている間も握って離さなかった長剣を突き出した。

キギィェェェェェェェェェッ!!

怪物の断末魔が夜空に響き渡り、怪物は絶命する。しかしその断末魔は一つだけであった。二匹目の怪物は顔面に深々と剣をつきたてられたが、緋色を襲った三匹目の怪物は女性同様、寸前で身を捩って右腕を突き出し、回避と反撃を試みた。結果、長剣は彼の片耳と両翼を持っていき、鎌は女性の四枚の翼のうち片側二枚を散らし、飛行手段を失った両者はグラウンドに叩きつけられた。

「…」

もうもうと巻き上がった土煙の中から、女性が立ち上がった。人間がクレイジーソニックの直撃を受ければまともに立てなくなるどころか脳を破壊されて死んでもおかしくないのに、女性は毅然とした歩で緋色に近づいていく。

「痛い…痛いよ…」

緋色の体で赤く染まっていない場所はなかった。体中ズタズタに切り裂かれていて、まだ四肢が繋がっているのがむしろ不自然なほどだ。誰が見ても彼はもはや手遅れだった。女性が近づいても視線が動かず、虚ろな瞳が虚空を見つめている。おそらく、もう見えてもいないのだろう。そばに腰を下ろした女性の悲しげな目も、四肢ではってゆっくりと近づいてくる、憎しみに目を血走らせた怪物の姿も。

「たすけて…」

足音で女性が近づいてきた事に気づいたのか、血泡を吹きながら口を動かし、言葉を紡いだ。女性はゆっくりと首を振った。目は見えてなくても無言である事の意味を察知したのか、緋色の瞳から涙が溢れた。

「いやだよ…死にたくない…僕はまだ13歳になったばかりなんだ…」

女性は瞳を閉じ、緋色の右手を握った。手の施しようがなくても、死を看取ってやることくらいは出来るという意味だろうか。その女性の体も爪先から、先ほど倒された二体の怪物のように粒子状になってゆっくり消滅していった。先ほど機械が告げていた「180サイクル」が経過しようとしていた。

「今日は朝起きたらみんなとカラオケに言って…また夜になれば父さんと夕御飯たべて…」

緋色はすがり付くために左手で身を起こそうとするが、左腕が思うように動かず、指先がじたばたと空しくもがいてグラウンドの土を引っかくだけだった。

「まだ夏休みは始まったばかりなんだ…これからもっと…もっと楽しいことがあるはずだったのに…なんで…」

緋色の瞳から大粒の涙がこぼれては、顔面に飛び散った吐血を洗い流してグラウンドに落ちた。地面に落ちた涙の染みは次々と増えていく。

「…人間を守るのがシールダーズ隊員の使命、か」

不意に女性が口を開いた。閉じていた瞳を開き、何か決意めいた表情をしている。女性は緋色を抱きかかえると腰についていた機械を外し、緋色の背中に当てる。

「な、に…?」

薄れ行く意識の中で、緋色は女性の言葉と行動の意味が分からず、困惑する。

「シールダーズ隊員心柄第一条!いかなるときも人間の命を最優先せよ!人間界の平和が守られる事こそ我らが勝利である!!」

女性が天に届かんばかりの声で叫ぶ。すると緋色の背中に暖かいものが感じられた。その温もりは傷ついた緋色の肉体に浸透していき、痛みが引いていった。いつの間にか温もりが抱きあっている女性の体にも伝わり、女性と自分の体が一つになっていくような奇妙な感覚に包まれた。やがて暗闇に覆われていた視界がまばゆい光に包まれ、そしてゆっくりと晴れていった。

「う…ぼ、僕は…?」

目に飛び込んできたのはグラウンドの真ん中から見える、見慣れた光景。今が真夜中であることを覗けば見飽きた光景だ。光が晴れたら天国にいるのかと思った緋色は多少拍子抜けしてしまった。

「キキキィ…」

しかし、緋色に拍子抜けしている暇はなかった。いつの間にか5メートルと離れていない位置に、先ほどの怪物が四つんばいになってこちらを睨んでいた。緋色の体をズタズタにしたあの怪物が。緋色は戦慄し、おもわず後ずさる。怪物が大きく口を開いた。

“危ない!ジャンプして避けろ!”

突然、あの怪物と戦っていた女性の声が聞こえ、緋色は思わず地面を蹴った。すると信じられないことが起こった。地面から足元がどんどん離れ、足元を怪物の放ったリング状の光が通り過ぎても上昇が止まらず、校舎の三階くらいの高さでようやく緋色の体が止まった。そう、止まったのだ。上昇も下降もしていない。あまりの出来事に緋色は声が出なかった。緋色の目の前に白い、鳥の羽が舞っていた。フワフワとした動きでゆっくりと落ちていくそれを、思わず手を伸ばしてつかむ。だが白い羽をつかんだのはバンテージと赤い布の帯が巻かれた、細身だがしっかりと筋肉の付いた男性の手であり、緋色の手ではなかった。

「…!?」

否、やはりそれは緋色の手だった。緋色の肉体は明らかに変化していた。体型は子供の物ではなく細身だが筋肉の付いた成人男性の体に、服は身体にフィットする白いスーツの上から真紅の腰布や帯を巻いた姿に、頭からは長い金髪をたらし、顔は口元を除いて鋼鉄のマスクで覆われていた。そして背中には一対の白い羽。そう、その姿はあの女性と同じく、天使と呼ぶに相応しい姿だった。

“ピッドモンか…私と君のデータが融合した結果、このような形態になったようだな”

再び耳元に、否、頭の中に先ほどと同じ女性の声が響いた。

2006年7月22日 午前0時25分 緋色にとって生涯忘れることの出来ない夏休みは始まったばかりであった。









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