「クレイジーソニック!!」

足元よりも遥か下から奇声が聞こえ、緋色は身を強張らせた。視線を声のした方向に向ければ、人間よりも巨大な蝙蝠に似た怪物が大口を開けて自分を睨んでいた。そして怪物の口から発射されたリング状の光線がこちらへ向って来た。…そう、背に生えた一対の翼で空中に留まっている自分に向って。一体何が起こっているのか、検討も付かなかった。蝙蝠に似た姿の異形の怪物。背に羽を生やし、二本の長剣をふるって怪物を葬った謎の女性。そして、変化した自分の体。次々と起こる異常な事態を前にして、緋色は声も出なかった。

“何をやっている!避けろ!”

先ほどと同じように女性の声が聞こえてきた。気がついたときには姿を消していたあの女性の声が。

「避けろって言われたって…!」

ようやく言葉を搾り出した緋色の目の前に、怪物の放った緑色の光の輪が迫っていた。この光線がいかなるものか緋色は知らなかったが、当たればただでは済まないという事は女性の言葉から察することが出来た。しかし緋色にはどのような行動をとれば避けられるのか検討が付かなかった。そもそも今、翼を羽ばたかせて空中に浮んでいる状態でさえ自分で意識してやったことではない。上昇、下降のやり方どころか、『翼の動かし方』さえ緋色には分からなかった。そもそも、自分の背に生えた翼の動かし方を知っている人間がこの世にいるのだろうか?

平常心を失いかけた緋色に構うことなく、光の輪は距離を縮めてくる。目前に迫った危機の中で緋色は藁をもつかむ思いで、背中に意識を集中する。絵を書くとき筆を持った指先に、マラソンのときに足に意識を集中するように背中に意識を背中に集中すれば翼の動かし方も認識できると思ったのだ。するとすぐに肩甲骨の辺りに何かがあるという感覚を知覚した。異物感はない。ほんの一分前まではなかったものがあるのに、確かに自分の体の一部であると感じられる。強靭な筋肉によって自分の体と繋がっている、二枚の白い翼の重みを感じることが出来た。そして緋色が自分の体から生えた翼の存在を始めて知覚した瞬間、今まで無意識のうちに翼を羽ばたかせていた付け根の筋肉が動きを止めた。そして緋色の体はストンと、小石を落とすかのようにまっすぐにグラウンドにむかって落下して行った。

「うわあああああっ!?」

何の前触れもなく落下していった為緋色は思わず悲鳴を上げてしまい、顔面から校庭に無様に叩きつけられてしまった。

「イタタ…うぇ、口に土が…」

グラウンドとの盛大なキスで口に入った土をペッペッと吐き出しながら、緋色は顔を上げる。すると校舎の屋上を越える高さの辺りに、先ほどまで緋色が滞空していた場所をとうに通り過ぎた光の輪が見えた。そこで緋色は気づいた。自分はあれだけの高さから落下したのに、怪我一つ負っていないと。痛みこそ感じるもののさしあたって怪我と呼べるような物は何一つ無い。身体にフィットする白いスーツに身を包んだ、細身だが筋肉の付いた今の肉体には。

「キギィ…キギィィィ!」

怪我をしていない自分の体に気を取られている間に、あの蝙蝠のような怪物が緋色に近づいていた。両翼をあの女性に切り落とされ、飛行することの出来なくなった怪物はその恨みを緋色にぶつけようとしているのか、血走った目で睨みつけていた。そして鎌が先端に付いた前脚を大きく振りかぶり、緋色に振り下ろした。

「ひっ…!!」

怪物の形相を目の当たりにして緋色は思わず顔を背け、両手を前に突き出した。すると怪物の顔面に緋色の両手の平が勢いよくぶつかった。子供の力で突き飛ばされたとしても、怪物にとっては蚊に刺されたほどにも感じないだろう。しかし、今の緋色の力は13歳の子供のそれではなかった。怪物はくもぐった悲鳴を上げ、勢いよく転がりながら数メートルほど後方に吹き飛ばされた。

「…嘘」

グラウンドの真ん中に這い蹲る怪物を呆然と眺めながら緋色は思わず呟く。空を飛び、人間以上の強度を持つ肉体と怪物を突き飛ばせるほどの腕力。それが今、自分に備わっている。まるでフィクションの中にしか存在しない筈の超人のように。日付が変わってから常識では考えられないような存在に次々と出くわしていたが、出会ってから10分程度で今度は自分がそのような存在になってしまい、緋色の混乱はピークに達していた。

“何をやっている?起き上がってくるぞ!”

再び呆然としていた緋色に怪物が起き上がろうとしているのを気づかせたのはあの女性の声だった。姿は見えないのに声だけ聞こえてくる。その異常さも気になったが未だ自分への敵意を失っていない怪物の瞳をみて、緋色はそれどころではないとすぐにその疑問を頭の隅へ追いやった。

“今のうちに止めを!必殺技を使うんだ!”

「ひ、必殺技!?」

緋色は思わず女性の声に対してオウム返しで答える。怪物は大口を開き、あの「クレイジーソニック」を放とうとしていた。

“デジモンは生まれながらにして己の種族の名を、技を、自身の力を知っている!戦うという意思を持て!そうすれば「必殺技」の名も使い方も分かる!”

緋色は女性の言葉の意味がさっぱり分からなかったが、怪物をどうにかしたい一心で、この謎の声の言葉を実践した。一時も視線を合わせていたくないような恐ろしい怪物を強く睨み、逃げるのではなく「戦う」という事を、「必殺技を怪物に向って放つ」と言う事を強く意識する。そう意識していると、体の奥底から熱い何かが湧き上がってくるのが感じられた。緋色はRPGでラスボスに挑むときのように、気持ちが高揚しているからそう感じられるのだと最初は思った。しかしやがて体の奥底、しいて言えば胸を中心として湧き上がってきた熱とは別に背中の辺りに強烈な熱が集まっているのを緋色は感じていた。やがて感じたことも無いような熱さにまで膨れ上がった熱を、不思議と熱いとは感じてもそれを辛いとか痛いとか感じることはなかった。緋色の背中から生えた二枚の翼が、炎に包まれて爛々と深夜の学校を照らしていた。

「ファイアフェザーッ!!」

緋色が脳裏に浮んだ言葉を、「必殺技」の名を叫ぶと紅蓮に染まった翼が大きく羽ばたきと翼から炎が離れるや否や矢のような速度でまっすぐに怪物に向って飛んでいった。

 

ギギィィィィィィィィィィィィィィィ!!

 

無数の炎の矢は全て怪物に着弾し、一瞬で怪物の体は校庭を赤く染め上げる松明へ変わった。肉の焼ける特有の異臭に緋色は思わず顔を背ける。怪物はしばらくの間身を焼かれる痛みにのた打ち回っていたが、やがて動かなくなり、黒焦げになった肉体が先に倒された二体のように、粒子となって虚空に消えた。

「消えた…」

炎の中にあった怪物の体が完全に消えると、立ち込めていた肉の焼ける匂いもグラウンドに残っていた残り火も夜風に吹かれて薄れ、小さくなって行きやがて消えてしまった。先ほどまで圧倒的な存在感をもって緋色を恐怖させた怪物の最後の一匹が存在していた痕跡は、まったく残されていなかった。計3匹出現した怪物達の姿も、怪物達と戦っていた女性が存在していたという痕跡はもう見られない。しかし、自分の姿はいぜんそのままであり、先ほどまでの非日常的にも程がある出来事が夢でない事を物語っている。

「これ、どうすれば元に戻るんだろ…?」

頭部を目元まで覆う、目の辺りに一本の横線が入った鉄兜に触れながら緋色が呟く。そうした途端、緋色の体が足元から渦を巻く光の帯に包まれた。光は緋色の頭の先まで覆うと、爪先から解けていった。光が解けた途端、緋色は寒気を感じて軽くくしゃみをした。ふと手足を見てみれば、見慣れた自分の痩せた腕に、出鱈目に鋏を入れた白い紙細工のようなものが絡み付いている。足元に目を移してみればズボンもズタズタになっている。制服の切れ目から入る夜風が身体を撫で、また背筋に寒気が走った。

「うわ、何でボロボロに…」

“肉体は再生できたが、身につけている衣服はそうもいかなかったようだな”

またあの女性の声が聞こえ、緋色は辺りを見回す。矢張りあの女性の姿はない。声はかなり近いところから聞こえているように感じられるので、近い所にいるのは確かなのだが。記憶をなぞってみると、確か自分はあの怪物にズタズタに切り裂かれて、死ぬ直前であった。今の際の瞬間にあの女性に抱きかかえられたのは覚えている。そして目が覚めたときは自分が天使のようなあの姿になっていて、女性の姿はなかったのだ。恐らく、今こうして自分が傷ひとつ無い体で立っていられるのはあの女性のおかげなのだろう。緋色はあの女性が何をしたのかが気になり、どこか近くにいるであろう女性に向って問いかけた。

「貴方は一体何者なんです?そして何処にいるんですか?」

“…私の名はダルクモン。説明すると長くなるが、デジタルモンスターという君達からみて異世界「デジタルワールド」に住む生命体だ。そして私は君の中にいる”

「え?」

“君の命を救うために私のデータを君の肉体にダウンロードした。つまり、私と君は一つの肉体を二人で共有しているような状態らしい”








Scarlet Hero

“肉体を共有する2つの精神”

突然変異型デジモン ピピスモン
恐竜型デジモン ダークティラノモン
爬虫類型デジモン トータモン
登場








緋色は乱暴に部屋の扉を空け、自室に入るとその勢いのまま扉を閉めた。人に見つかって面倒な事にならぬように、また父よりも早く帰宅する為に学校から自宅まで全力疾走してきたので足の筋肉が鉛のように重かった。緋色は鞄を適当にほうり投げるとベッドの上に倒れこんだ。荒い呼吸に合わせて胸が上下する度に緋色が着ている、というよりも身体に絡まっているワイシャツの切れ端がひらひらとはためいた。

“少しは落ち着いたか?”

緋色の耳元、いや頭の中にあのダルクモンと名乗った女性の声が響く。緋色は反射的に身を強張らせ、部屋の中を見回すが部屋の中には自分以外の姿はない。先ほどの女性の言葉を信じるのなら、女性は自分と肉体を共有しており、自分の頭の中から話し掛けている事になる。にわかには信じがたいことだが、姿が見えないことに関する一応の辻褄は合う。

「…貴方は一体何者なんですか?デジタルモンスターって?」

緋色は恐る恐る口を開き、先ほどと同じ質問を投げかけた。

“デジタルモンスター、略してデジモンと呼ばれる存在は君達の世界からみて『異世界』に相当する「デジタルワールド」に住んでいる生命体だ”

先程はひどく取り乱してしまって頭に残らなかった言葉を、緋色は反芻する。異世界に住む異形の生命体。緋色はフィクションの中にしか存在しないはずの物が目の前に現われたことに対して、改めて強い驚きを感じていた。

“デジモン達は様々な姿形をしており、どれも例外なく強大な戦闘能力を持っている。生身の人間ではまず太刀打ちできないほどの力をな”

その事に関しては緋色は既に嫌と言うほど分かっていた。あの蝙蝠のようなデジモンの凶刃に切り刻まれ、また自らがデジモンになってその力を振るったのだから。

“私は『シールダーズ』と呼ばれる組織に所属している”

「シールダーズ?」

“君達の世界に出現した凶暴なデジモンを倒し、人間を守ることを目的に作られた組織だ。高い戦闘能力を持ったデジモンが人間の世界に出現すればどうなるか、君ならよく分かるはずだ”

緋色は思わず頷く。あのデジモンに身体を切り刻まれた時の記憶はほんの数十分前の体験だけあって、鮮明に覚えている。あのような自体がそこらじゅうで起こるのだと思うと、緋色の背筋が寒くなった。

「…貴方の事は分かったけど、僕の体は結局どうなったの?」

“どうやら君の肉体に私と言う情報が組み込まれたことによって君の体は半デジモンとでもいうべき状態になったらしい。デジモンの強靭な生命力によって君が受けた傷はなおり、さらに肉体をピッドモンという種のデジモンに変化させることも出来るようになったようだ。私の意識は残っており、君と五感を共有している様だが私は君の体を自分の意思で動かす等の干渉は出来ないようだ。それ以上の事は私にも分からない”

「分からないって…そんな!?」

“すまない…あの時、君の命を救うにはこれしか方法がなかった。デジモンと人間を融合させるという行為は我々の間でも伝説としてしか語られておらず、私もその伝説の中で瀕死の人間を救うためにデジモンが融合したという話を聞いただけで、それを真似てみただけなんだ”

それまでどこか事務的で、感情の起伏の無い声でしゃべっていたダルクモンの声が本当に申し訳なさそうなものに変わった。その声を聞いて緋色は彼女を責める気を失ってしまった。確かに死の淵にいた自分を救ってくれたのはダルクモンなのだ。何が起こるか分からない手段とはいえ、あの時はそれしか方法がなかった。そして結果として自分は生きている。自分がダルクモンを責める理由は何もなかった。

「謝る必要はないよ。むしろお礼を言うのは僕の方だよ」

“いや、礼を言う必要はない。シールダーズの理念はその名の通り人間達の盾となって人間を守る事。私はその理念に従っただけだ”

緋色の口から自然に出た言葉に対して、ダルクモンはまた感情の起伏の感じられない声で返答した。緋色は多少面食らったが、構わず話を進めた。

「それで、僕はこれからどうすればいいの?」

“先程はほかに戦える者がおらず、戦わなければ君の身も危なかったのでたきつけるような事を言ってしまったが、デジモンが…シールダーズが人間の手を借りるわけにはいかない。やがて私の仲間が私を捜しに君の世界へ来るだろう。君は普通に生活してそれを待てばいいだけだ”

「こっちから連絡を取る事はできないの?」

“先程の戦闘で連絡手段を失ってしまった。デジタルワールドにいる仲間達が私を見つけてくれるのを待つしかない”

連絡手段、と聞いて緋色はダルクモンが身につけていた、携帯ゲーム機のような機械を思い出す。白と赤のツートンカラーで、ベルトのようなものでダルクモンは腰からぶら下げていた。緋色は帰るときに壊された携帯電話と一緒に持ってきたそれを、鞄の中から取り出して手に取った。

「これだね?」

“うむ。D・バックラー。シールダーズ隊員の証でもある”

バックラーと聞いて、緋色はRPGの中でよくその単語を聞いたことを思い出す。主に小型の円形盾の事を示すその言葉通り、淵の部分にリブの付いた円形のボディの中央に液晶画面が付いたというD・バックラーの外見は盾を模しているようにも見えた。シールダーズ隊員の証であるその小さな盾は、先程の戦闘中のダメージを受けて壊れていた。液晶画面が砕けてしまい、赤と白で綺麗に塗り分けられた本体にはそこらじゅうに亀裂が入っている。デジタルワールドの機械技術がどれほど進んでいるのかはわからないが、緋色にはこれがまだ動くとは思えなかった。

「はぁ…疲れた…」

一段落つくと急に一気に疲労と眠気が襲ってきた。散々走り回った上、とうに一時半を過ぎているので無理もないだろう。気を抜くとこのまま眠ってしまいそうだったが、懸命に眠気に逆らって先に汗を落とそうとベッドから身を起こす。衣服としての機能を果たせそうにもない制服を父に見つからないようにクローゼットの奥に押し込み、寝巻きと変えの下着とバスタオルを抱えると緋色は風呂場のある一階に駆け下りた。そして丁度玄関の前を通り過ぎようとしたとき、その扉が開いた。

「なんだ、まだ起きていたのか?」

細面でオールバックの髪型の男が玄関の扉を閉めながら言った。清潔感のあるスーツを着込み、40歳という年相応のしわの刻まれた生真面目そうな顔立ちは、「厳格な上司」の言葉から想像できるイメージの模範、と呼ぶに相応しかった。

「夏休みだからと言ってあまり夜更かしをするのは感心しないな。クセになると新学期になってから大変だぞ」

靴を脱ぎながら泉戸葵(いずみどまもる)は息子を軽く咎める。緋色はバツの悪そうな顔をして、バスタオルを抱えながら萎縮していた。

「それに明日は詩歌(しいか)さん達と約束があるんだろう?寝過ごしておくれないように…」

言葉の途中で葵の表情が怪訝そうなものに変わった。緋色の記憶の中にある父の顔のなかから似ているものを挙げるとするなら、TVで時々やっている「オタクのお宅拝見」と言った趣向の番組を見たときの表情に似ていた。その父の視線の先にあるのがTVに移った、物で溢れて足の踏み場も無い部屋ではなく、自分の顔であったので鏡のように緋色も父と同じような表情を浮かべた。

「な、何?僕の顔に何か付いてる?」

「いや…顔というか…」

葵は果たしてこれは聞いてよいのやら、と思案したかのように少し言葉に詰まる。緋色にはなぜ父が自分をみてそんな表情をするのかまったく検討が付かず、困惑するばかりだった。

「その…頭につけているのはなんだ?新しいオモチャか?」

「頭?」

反射的にそっと頭に手を伸ばしてみると何か柔らかいふわふわしたものが手に触れ、緋色は異物に驚いて反射的に手を引っ込めた。

「その…なんだ…父さんはお前の趣味にとやかく言う気はないがな…そういうのをつけるのは家の中だけにするんだぞ…」

そう言って葵がハンカチで拭った額の汗には冷たいものが混じっていた。痛い。父の視線が、どう対応していいか分からないという彼の困惑の念がはっきりと分かるその視線が緋色には痛かった。

「こ、これゲームのキャンペーンで貰ったんだよ。ほら、最近は欲しいのも欲しくないのも色々付いてきちゃうから…お風呂、先に入らせてもらうよっ!」

いたたまれなくなった緋色は即興で思いついた言い訳を口走りながら、逃げるように風呂場へ走っていった。

 

 

 

 

浴室の鏡に映った自分の姿を見て、緋色は言葉を失った。やや痩せ気味の細い身体。ぱっちりとした眼が特徴的な幼い顔立ち。鏡に映っているのは見慣れた自分の姿。しかし、一点だけ見慣れない異物が見受けられる部位があった。頭。頭頂部と左右の耳の付け根を結ぶライン上に、小さな白い羽根が生えていた。とても小さな羽根で、だらんと垂れている状態でも耳にぶつかるかどうかギリギリ、という程の大きさしかない。ピッドモンの羽の動きを制御したときのように(と言っても羽ばたきを止めただけだが)頭に、耳の少し上の辺りの頭皮に意識を集中してみた。すると垂れ下がっていた小羽がピクリ、と動いた。更に意識を集中し、顔を赤くするほど力んでみると羽が持ち上がり、頭頂部で綺麗なV字を描いて2、3度羽ばたいた。力を抜くとまただらんと垂れ下がり、湯気を吸って湿った羽毛が髪に張り付いた。間違いない。触って確かめてもみたが、この羽は作り物ではなく緋色の頭皮から直接生えている。

「何だよ、これぇ…」

“私と君が融合してしまったことの影響だろう”

緋色が力なく呟くと、ダルクモンの声が返ってきた。相変わらず事務的な声だったので緋色はこれがダルクモンが言った程度の事ならば大体検討がついていたことも手伝って、少し声を荒げながら言う。

「そんな事くらいわかっているよ!どうすればこれ取れるの!?」

“分からない。とりあえず仲間に見つけてもらったら身体を詳しく調べて、君と私を分離させる方法を探してもらおう。今はそれくらいしか対策が無い”

よくそんなに余裕綽々でいられるなぁ。もし分離できなかったら自分も一生このままなのに。そんな風に少し呆れながら、緋色はシャンプーのボトルを取った。兎に角今はダルクモンの言うとおり待つしか方法はないのだ。ジタバタしても仕方ないと、今日は明日にそなえて早く風呂から上がって寝よう。そういえば頭から直接羽が生えているけど、このままシャンプーしてもいいのだろうか?緋色が鏡の前でそんな事を考えていると、突然ダルクモンが“ふむ…”と何かに感嘆するような声を漏らした。

「どうかしたの?」

肉体を二人で共有し、頭の中で会話が出来るといってもどうやらお互いが心の中で思ったことに関しては伝わらないらしい。ダルクモンの呟きの意味が分からず緋色はその意味を尋ねた。

“人間の体と言うのは始めてみたのでな。私のように人間に近い姿のデジモンはいても、そのデジモンの体にはない器官が人間にはあると聞いていたが、実物を見るのは初めてだ”

「え…」

緋色はダルクモンが五感を自分と共有していると言っていたことを思い出した。五感には当然視覚も含まれる。つまり、自分の見ているものはダルクモンにも全て見えるのだ。そう、自分の目の前にあった鏡に映ったものも。そしてもう一つ、思い出したこともある。ダルクモンは妙齢の女性の姿をしていたという事を。それらを意識した瞬間、頭から生えた羽が跳ね上がり、緋色の顔が耳まで真っ赤になった。思わずシャンプーボトルを放り投げ、緋色は浴槽に飛び込んだ。そして緋色は真っ赤になった顔を唇の上まで湯船に浸けながら、視線をクリーム色の天井に向けて固定して動かさないように意識した。

“?”

自分の中にいるダルクモンが、怪訝そうな顔をしたような気がした。

 

 

 

 

 

葵は息子が用意してくれた夕食を電子レンジに入れ、スイッチを入れた。温まるまでは3分ほどかかる。テーブルに付いてそれを待とうとすると、風呂場から水飛沫の上がる音が聞こえてきた。大方、風呂場ではしゃいで浴槽に飛び込みでもしたのだろう。中学に上がったとは言え、矢張りまだまだ子供だな。そう思うと葵の頬は自然に緩んだ。そしてふと何か思い立ち、手帳から一枚の写真を取り出した。亡き妻、美登里(みどり)の写真だ。

「美登里、緋色は相変わらずだよ。少しは背が伸びたけど相変わらずヒーロー物に夢中さ。勿論それが駄目だなんて言わない。普段あまり家にいてやれない分、あいつには好きな事をやらせてやりたいんだ。たった一度きりの子供時代だからな」

本当に楽しそうな様子で、葵は写真の中の妻に語りかける。だが突然声のトーンが下がり、彼の厳格な要望からは想像できない自身のなさげな声に変わった。

「俺はあいつの趣味を出来るだけ理解してやろうと勤めてきたつもりだが…正直言って今度のは難しいよ…。コスプレだかキスプレだか知らないが、どうもああいう手合いは理解できん。ああ、緋色が二十歳過ぎても働かないで仮装して引きこもるようになってしまったらどうしよう。お前とお前のご両親と親父とお袋に合わす顔がない…矢張り俺が仕事バカなのが悪いのか…!」

いつの間にか頭を抱えだし、葵は机に突っ伏した。そのまま数十秒間突っ伏していたが、加熱が終わった事を知らせるレンジの音が鳴ると同時に勢いよく立ち上がった。

「そうだ!今年は夏休みをたっぷりとってやろう!そうすれば旅行に行くなり親父達のとこへ遊びにいくなり、宿題を手伝ってやるなり何でもできる!今手がけている仕事を全て片付ければ8月の終わりには去年の倍近く休みを取れる!美登里、見ててくれ!俺はやるぞー!」

拳を振り上げて葵は叫ぶ。写真の中の妻は、それを優しく微笑んで見守っていた。

 

 

 

「さぁ行こう♪気分は最高♪そうさ成功を…」

その歌の歌詞どおり気持ちよさそうに歌う友人を、緋色はぼんやりと眺めていた。寝不足気味ではあったが待ち合わせ時間には遅れずに友人達とカラオケに行くことが出来たが、緋色はそれを素直に楽しめない気分だった。どん底まで落ち込んでいる、深く絶望しているというほどでもないが、心に重しが載せられていてその重みの所為で高く羽ばたこうと思っても羽ばたけない、そんな奇妙な気分だった。

「緋色くん、どうかしたの?」

不意に、化粧水の匂いが鼻孔を擽るのを感じて、緋色は顔を上げる。柔らかく丸みを帯びた印象の顔をした、優しげな女性が緋色の顔を覗き込んでいた。詩歌皐月(しいかさつき)。緋色の家の隣に住む大学生だ。詩歌家と泉戸家は隣同士であった為付き合いが深く、緋色は幼い頃から彼女の世話になったことが何度もあった。今回も緋色の父が子供たちだけでカラオケに行く事に反対したため、彼女が保護者役を買って出てくれたのだ。

「ここクーラーがきついから、頭でもいたいの?」

「そ、そんなことないよ」

緋色は顔を背け、皐月から離れるように席を少しずらした。数年前までは緋色はよく彼女に甘えてきたが、多くのこの年頃の男子がそうであるように緋色も女性に甘えた態度を取ることに抵抗を持つようになっていた。

「そんなことあるじゃねぇか。今日の主役だってのに辛気臭い顔しやがってさ」

と、皐月から離れた緋色にすかさずヘッドロックを掛ける少年が一人。冗談交じりの軽いものとはいえ、いきなりの事だったので驚いて緋色は思わず手足をじたばたと動かした。

「ぜ、善ちゃん。ホントになんでもないってば」

「普段は真っ先に歌いたがる奴が1時間以上経っても歌おうとしないのになんでもないってのは無理があるんじゃないかぁ?」

そう言って緋色の友人、勝山善次(かつやまぜんじ)は日焼けした顔をめいっぱい近づけて意地悪く言った。不味いなぁ、と緋色は感じた。ここに集まった友人達の中では一番古い付き合いになる善次は、同年代の女子から見ればデリカシーに欠けるとか評される類の人間ではあるが付き合いが深い者、親しい者に関しては抜群の洞察力を見せる。それに付いて何故分かるのかと聞くと「え、普通気づくだろ?だっていつもと比べてなんか違うじゃん」と返した彼は、理屈ではなく直感的に相手の性質を見抜いてしまうのかもしれない。何せ小学校入学して間もない頃、お互いの家は学区内の端と端でかなり離れていたのに予告もなしに歩いて遊びにきて、驚いてその理由を聞けば「お前とは何か気が合いそうだったら」と言ってのけるくらい彼は自分の直感に自身がある。そしてその直感はほぼ100パーセントの確立で的中する。断っておくが、当時の緋色は人見知りが激しく級友達とほとんど話せず、その日まで学校で善次と話したのはそれまで一回しかなかった。

そういった人間であるので、善次には隠し事が通用しないのは重々承知していた緋色だったが、流石に今回の件は知られるわけにはいかなかった。このときは今の自分の肉体の秘密を他人に知られることによって生じる事象を緋色ははっきりと意識していたわけではなかったが、多くのヒーロー達がその正体を周りには秘密にしているのに習ったかどうかは知らないが緋色は直感的に「誰にも話してはいけない」と感じていた。

「ほ、本当になんでもないってば!」

そう言って緋色は善次の腕を振りほどき、丁度誰も手をつけていなかったコード表とリモコンをひったくるように手に取った。異界の生物、デジモンに出会ってしまい、一度死に掛け、そしてダルクモンと肉体を共有すると言う形で生きながらえてその付属効果として変身の力と頭の羽を手に入れてしまった。気分が浮かず歌う気になれなかったのはそれらの事象に対する困惑がもやもやとした不定形の塊となって腹の中に溜まっていたからだ。それは例えるのならば指向性のない不安感。「自分は今後どうすればいいのか、こんな事をしていていいのか」という感情。それが付きまとってはなれず、何をする気にもなれなかった。だが今は下手に普段と違う態度をとると善次に怪しまれ、頭の羽を隠している帽子を剥ぎ取られかねない。兎に角歌って誤魔化そう。それに好きな歌を歌えば気分も晴れるかもしれない。そう思いながら緋色はお気に入りのヒーロー物の主題歌のコードを5、6本ほど入力した。

「緋色くん、そんなに一度に歌えるの?」

「ダイジョーブですよ皐月さん。こいつ以前十曲連続で歌ったことがありましたから」

いつの間にか緋色がずれて空いた皐月の隣を占領した善次が言った。とりあえずこの場は自分の隠し事について言及する気はないようだ。そして一曲目のイントロが流れ始め、緋色は先程まで歌っていた別の友人からマイクを受け取る。異変はその瞬間に起こった。

カラオケボックスの画面が急に砂嵐になって乱れ、勇ましいイントロも耳に優しくないノイズに変わった。それに対して誰かが「ん?故障か?」と口を開いた瞬間、衝撃音が耳に届き建物全体が地震のように揺れて停電した。

「な、なんだよ!?地震か!?」

「みんな、怪我はない?」

その場にいる全員が身をすくめた中、まず最初に声を出したのは善次で、その次が皐月だった。個室の外から人々が何事かと騒ぐ声が聞こえ、ドアの開閉音や足音もたくさん聞こえる。皆外へでて様子を確かめているのだろう。緋色は揺れた際にバランスを崩してしまい、床に落ちて割れたジュースのコップの破片の上に手をついてしまい、手の平に切り傷を作ってしまった。そのことを口にしようとしたが、ドアの外から聞こえたある単語を聞いて傷のことなど吹っ飛んでしまった。

「か、怪獣だ!!」

怪獣。確かにそう聞こえた。多くの人間なら、昨日までの緋色なら何を馬鹿な事をと一笑するだろう。しかし、今は昨日ではない。2006年7月22日、今現在なのだ。緋色は知っている。デジモンと言うものが存在することを。フィクションの中だけであったはずのモンスターと、怪獣と呼ばれてもおかしくない生物がこの世に存在することを。気がついたとき、緋色は個室を飛び出していた。怪獣という単語を他にも聞いたものがいるのか、善次を始めとして他の友人達もそれに続き、皐月がその後を追った。緋色達のいた個室は出入り口に近い所にあったので、十数秒で緋色は建物の外に集まっている店員・客が無い混ぜになった群集達のところにたどり着いた。そして、広い駐車場の真ん中に怪獣の姿を見つけた。

三階建ての建物に優に届くであろう黒い山。それは巨大な爬虫類だった。恐竜ではない。やや前傾姿勢ではあるものの二本の太い足で直立。足にまけず逞しい巨腕。漆黒の表皮には赤いラインが背や腕に縞模様を作っており、そして背には緑色の背びれが生えたその姿は、「怪獣」と呼ぶに相応しい姿形をしていた。多くの人間が「怪獣」と聞いて想像するであろう外見に相応しすぎて、いまどきここまで捻りの無い怪獣なんて皆無だぞ、と緋色は場違いな事を考えてしまった。怪獣はその大きな―――千切れた電線の絡まった頭部を彼の目線よりも少し高い位置にある、カラオケボックスの巨大なネオン看板に向けた。恐竜の硬く閉じた口の、並んだ鋭い牙の隙間から黒によく映える赤い火の粉が見えた。次の瞬間、怪獣は群集達の多くの予想通りの、ある種期待どおりの行動をとった。

「ファイアーブラスト!!」

怪獣が大口を開けると、紅蓮に燃える炎が喉から吹き上がり、灼熱の奔流となってネオン看板を飲み込んだ。あまりの熱量に怪獣の顔に絡まった電線は吹き飛び、奔流が過ぎた後にはとろけた鉄柱しか残らなかった。風に吹かれて火の粉が群集の上に降りかかった。火の粉事態はまったく殺傷能力を失った炎の残り香に過ぎなかったが、スイッチとしての役割は十分だった。誰かの上に火の粉が落ちて「熱っ!」といったのが引き金となって、我先にと群集達は逃げ出し始めた。

“ダークティラノモン…!奴らはこんな大型デジモンをこんな場所でリアライズさせてきたか…!”

「…奴ら?」

いつの間にか姿を見失った友人達や皐月を探しながら緋色はダルクモンに聞いた。

“…本来、デジモンがこの世界に現われるなんて現象は極稀なことなんだ。一日の内に続けて二体、しかもこれだけ近い地域に現われるなんて事はまずありえない”

「それって、まさか…」

“そうだ。誰かがこの世界にデジモンをリアライズさせている”

緋色は逃げ惑う群集の中で立ち止まり、ダークティラノモンを見上げた。ダークティラモンは駐車場にとめてある自動車を片っ端から踏み潰している。自分の車で逃げようとしていた人がその光景をみて落胆し、安くはないであろう自分の資産がお釈迦になったことにショックを受けているという光景が見えた。そして車を踏み潰すだけでは飽きたらず、逃げ惑う群集の進行方向に自動車を投げつけた。自動車は群集に直接激突することはなかったが、それでも群集に恐怖を植えつけるには十分だった。人々は甲高い悲鳴を上げて、ある者は右へ、ある者は左へ右往左往していた。その間、ダークティラノモンは破壊活動を止め、逃げ惑う群集に顔を向けていた。この状況において唯一怪獣の一挙一動に着目していた緋色は思った。このデジモンは自分のやっていることが人々にどんなに恐怖を与えるか、それを分かっていて楽しんでいるのではないか?悪意を持ってこの世界に現われ、破壊活動をしているのだろうか?

緋色は先日、ではなく本日の午前0時にであった蝙蝠のようなデジモンの事を思い出す。あのデジモンは、笑いながら自分に鎌を振り下ろしてきた。無力な得物を狩り、命を奪うことに喜びを感じていたのだ。

“何をやっている!?恐怖で足がすくんだのか!?”

緋色の頭の中でダルクモンが叫ぶ。早く逃げろ、と。だが緋色が怪獣ダークティラノモンに対して抱いている感情は恐怖ではなかった。強い怒りだった。今目の前であの時の自分のように恐怖し、生命を危険に晒されている人達がいる。許せないのはそれが事故ではなく、明確な悪意を持って行われているという事だった。生まれて初めて感じるほどの強い怒りに、緋色は自分の体が熱くなっていくのを感じた。

“まさか君は戦う気なのか!?”

無言でダークティラノモンを睨みつける緋色が何を考えているか分かったのか、ダルクモンは彼女らしくない、少し取り乱したような声を上げる。緋色は無言で頷いた。

“よせ!君が戦う必要はない!それにピッドモンでは…”

「僕は自分にも何か出来ることがあるのに黙ってみているなんて嫌だっ!」

緋色はそう叫んでダルクモンの言葉を遮るように叫んだ。そして強く念じた。「ピッドモンに変身する」と。念じてすぐさま緋色の手足を、身体を光の螺旋が包み、そしてほつれていく。幼い少年の姿は引き締まった肉体を持つ、赤い衣を纏った天使の姿に変わりダークティラノモンに向って飛びたった。 既に辺りの人間は全員逃げ出しており、ダークティラノモンは大通りを挟んでカラオケボックスの向かいにあるショッピングセンターの方を向いていた。呑気にも対岸の火事とタカをくくっていた野次馬達を次の標的に定めたのだ。緋色は一直線にダークティラノモンの後頭部に向って飛び、何時の間にか手に握られていた金色の、先端に三日月の飾りが付いたロッドを思い切り振り下ろした。硬いもの同士がぶつかり合う手ごたえが伝わり、腕に軽い痺れが伝わってきた。後頭部を殴られたダークティラノモンはゆっくりと振り向いく。彼の青く濁った瞳は、明確な殺意を持って緋色を睨んでいる。自分に対して殺意を抱いた相手と正面から対峙し、全身を射抜くような眼光に恐怖し一瞬たじろいだ。恐れるな、自分だって今は高い戦闘能力を持つデジモンなんだ、と緋色は今すぐ背を向けて逃げ出したくなる自分を奮い立たせた。

 

ギャオオオオオオ!!

 

ダークティラノモンは咆哮を挙げながら太い腕をアッパー気味に振り上げた。爪の先がアスファルトを削り、その破片や粉塵が勢いよく巻き上がった。

「うわっ!?」

振り上げられる巨腕の迫力に圧倒されながらも、緋色は翼をはばたかせ真横に移動して回避する。

“危険だ!これは遊びじゃないんだぞ!?今すぐ逃げるんだ!”

ダルクモンは相変わらず警鐘を鳴らしていたが、緋色は逆に「いける」と確信していた。ピッドモンの体を動かすことに何の齟齬も無い。この手足も、翼も自分の物であると意識すれば何の抵抗もなく動く。空を飛ぶことさえ自由自在だ。先程だって、そして今この瞬間もダークティラノモンが振り回した腕を空中でバックして避けることが出来た。自分は戦える。この怪獣と戦えるだけの力を持っているのだと緋色は確信した。飛行して十分に距離をとって離れると、ロッドの先端をダークティラノモンに向けた。そして炎の矢をダークティラノモンに放つ姿を、必殺技を放つ光景を瞳の裏に強くイメージする。すると二枚の翼が炎に包まれ、激しく羽ばたいた。

「ファイアフェザーっ!」

羽ばたきと同時に真っ赤な炎の塊が翼から離れ、ロッドの指した方向、ダークティラノモンへと無数の炎の矢になって飛んでいく。炎の矢はダーティラノモンの腹部を中心に全弾命中し、その体の前面が炎に包まれる。

「やった!」

緋色は勝利を確信し、拳を握り締めた。しかしその勝利の確信はすぐに裏切られた。ダークティラノモンの体の前面に広がった炎は全身に広がる事無く掻き消え、ダークティラノモンの表皮には焦げ目が付いただけで大きなダメージは与えられていそうになかった。

「そんなっ!?」

緋色が驚愕する間もなく、ダークティラノモンの喉から紅蓮の奔流「ファイアーブラスト」が吹き上がる。緋色はそれをギリギリで回避すると再度ファイアフェザーをダークティラノモンに放った。無数の炎の矢はダークティラノモンの顔面を狙ったが、振り上げた右手でカードされた。巨腕が炎に包まれ、肉のこげる匂いが漂ったがやがて炎は掻き消えた。ダメージがないわけではないが勝負を決めるほどではないことが誰の目にも明らかだった。

“だから言っただろう!君はダークティラノモンには勝てない!”

緋色の脳裏にダルクモンの声が響いたが、ダークティラノモンの吐く炎から逃げるのに必死な緋色はそれを半ば聞き流していた。

“先の弱っていたピピスモンと比べてダークティラノモンは動きこそ鈍重ではあるものの攻撃力・防御力は桁違いだ!ピッドモンの攻撃力では相性が悪すぎる!”

ダルクモン自身に言われなくても、緋色は自分が「ダークティラノモンをどうにかできる」だけの力を持っていると確信したことがとんでもない間違いである事を痛感していた。いつの間にかダークティラノモンと正面から対峙した時の勇気もどこかに吹っ飛んで、緋色は空中を無様に逃げ回っていた。

“奴の足は遅いからピッドモンの飛行速度なら逃げ切れる!今は兎に角逃げることだけを考えろ!”

“お前は元々守られる側の者だ。ここで逃げる事は恥ではない”とダルクモンは情けなさで今にも泣き出したい緋色の気持ちを見透かしたように付け足す。その言葉は緋色にとっては追い討ちにしかならなかったのだが、それよりも死へ恐怖が緋色の体を突き動かし、限界まで翼を酷使しながら一直線にダークティラノモンから離れた。そのとき、急に緋色の視界がノイズがかかったように歪んだ。いや、視界が歪んだのではない。緋色の視界にあった、ピッドモンのもつロッドの姿が歪んだのだ。物理的にではなく、ノイズのかかったTV画面のようにジジジと揺らめいている。さらに気づけばロッドだけではない。手足や羽の先端といった体の末端部にもノイズが走っている。そして「何!?」と叫ぶよりも早く、背後に凄まじい熱量が迫るのを感じた。ファイアフェザーではなく、それよりも更に熱く激しい熱源。ダークティラノモンのファイアーブラストだ。反射的に身をずらして直撃は避けたが、紅蓮の奔流に片翼が飲み込まれた。翼の片方をうしなった緋色の体は真っ逆さまに落下し、カラオケボックスの屋根を貫いて建物の中に落下する。全身を落下の衝撃が貫き、それから少し遅れて鈍痛がやってきた。

「い、痛い…」

ピピスモンに身体を切り刻まれたとき、これ以上痛いことはないだろうと思った緋色だったが、落下の痛みに耐えられず思わず身悶えてしまった。その間にも手足のノイズ化は進行し、肘、膝辺りまで迫っていた。

“いけない…!今すぐ人間の姿に戻るんだ!さもないと消滅してしまうぞ!”

ダルクモンが突然悲鳴のように声をあげ、緋色は混乱しつつも「変身を解く」と意識する。すると変身したときと同じように身体を光の螺旋が包み、元の少年の姿に戻った。傷らしきものは身体になかったが飛び回った事による疲労と、落下の衝撃による鈍痛は全身に残っていた。

“我々はこの世界では一定の時間しか肉体を保てない…。ある程度時間が過ぎれば粒子になって消滅してしまう。それは融合してからも同じらしいな…”

デジモンはこの世界では一定時間しか肉体を保てない。そう聞いて緋色は淡い期待を持って、窓の外に見える、地響きを立てながらこの建物に近づいてくるダークティラノモンを見つめながらダルクモンに問いかけた。

「それじゃあ、ダークティラノモンもしばらく経てば消えて…」

“…残念だが奴らに時間制限はない。完全な形でこの世界にリアライズしている”

僅かな望みも、完全に絶たれた。窓の外から見えるダークティラノモンが、大きく顎をのけぞらせた。ファイアーブラストで建物ごと焼きつくそうとしているのだ。深い絶望。強い恐怖。折角拾うことの出来た命をまた落とすという運命への理不尽さへの、そしてこの事態を招いた自分への怒り。様々な感情が緋色の中を駆け巡った。そして次の瞬間、それらの感情は全て「驚愕」へと塗り替えられることになる。

「おらぁっ!」

不意に、窓枠から見える狭い視界の中からダークティラノモンの姿が消えた。変わりにゴツゴツした岩山のような物体がフレームの中を横切り消えた。それに続いて先程ダークティラノモンが出現したときよりも大きな地響きと轟音が届く。極短い間に状況が目まぐるしく変わり、呆気に取られている緋色に囁くようにダルクモンが呟いた。

“もう一体デジモンが出現したんだ”と。

「もう一体…?それって更に状況が悪くなったんじゃ…!」

しかしダルクモンは緋色の懸念を余所に、また普段どおりの事務的な言葉で答えた。

“いや、もしかしたらあのデジモンは…兎に角、外へ出て様子を見るんだ”

緋色はダルクモンの言葉が気になったが、逃げるにしてもまず建物から出なければいけないので。瓦礫を掻き分けて建物の出口へ向った。そして外へ出てその目に飛び込んできた光景に、言葉を失った。ダークティラノモンと対峙しているのは、それに負けぬほど大きい巨大な亀のデジモンであった。くすんだ黄色い体色で、背負った甲羅は尖った岩石のスパイクで埋め尽くされており、岩山を背負っているような姿だった。巨大恐竜と巨大亀。亀のほうは四足歩行であるものの、この二体の対峙は有名な二つの怪獣映画を連想させた。先程まで緋色はその片方に殺されかけていたのに、この光景にはどこか冗談めいた物を感じてしまい目にした瞬間に緊張感も恐怖も何処かへ飛んでいってしまった。

「ファイアーブラスト!」

ダークティラノモンが紅蓮の奔流を巨大亀に吐きかけた瞬間、緋色は再び現実に引き戻された。目の前で繰り広げられている光景は何かの冗談でも、ましてや映画のフィルムでもない。二体の「デジタルモンスター」が生死のやり取りをしているのだと現実に引き戻される。短く太い足で、岩山のような甲羅を背負った巨大亀はどう見ても機敏さとは無縁そうで、とても炎から逃れられるようには見えなかった。緋色は一方的にダークティラノモンが勝負を決めるのだろうと思ったが、戦いの行方はまたもや緋色の予想を裏切った。

「グランダッシュ!」

巨大亀は手足と頭部と尻尾を甲羅の中へ引っ込めると、その場で某有名怪獣よろしく高速回転を始めた。紅蓮の奔流、ファイアーブラストは高速回転する岩山のような甲羅に弾かれて雲散霧消し、いとも簡単に防がれてしまった。緋色はそのまま巨大亀が空中を飛び回るのかと思ったが、回転する巨大な岩山はネズミ花火を連想させる動きで勢いよく地面を滑り、ダークティラノモンに体当たりした。巨体ゆえに回避もままならずまともに体当たりをうけたダークティラノモンの巨体が、宙を舞った。恐ろしく重いはずの巨体がその身長並みの高さにまで吹っ飛び、人が逃げて誰もいなくなった大通りの上に叩きつけらえた。

「うわぁっ!」

本日三度目の、そしてもっとも大きな地鳴りが辺りを襲い、緋色は尻餅をついてしまった。7月22日に入ってから、13歳の誕生日を迎えてから常識を凌駕する光景ばかり目にしていた緋色だったが、今のは特に強烈であった。ダークティラノモンが叩きつけられたときの衝撃や、先程の巨大亀のネズミ花火のような動きで粉塵か高く舞い上がっていたが、巨大な亀の姿は緋色からでも良く見えた。ダークティラノモンを30メートル近く吹っ飛ばしたその巨大亀は、甲羅から頭をだすと勝利を確信して嘴の端を吊り上げた。

「これで終わりだ!シェル・ファランクスっ!」

巨大亀は手足も出して地面に踏ん張ると、頭を低くして甲羅をやや前方に傾けた。するとミサイルの発射音のような轟音が轟き、甲羅に映えていた巨大な岩のスパイクが次々に発射された。一番最初に発射された岩のスパイクが起き上がろうとしたダークティラノモンのボディに激突し、ダークティラノモンは転がるように勢いよくのけぞって倒れた。重量、速度とも相当なものを持つ岩石のミサイルは一発だけでもあの巨体をダウンさせるほどの威力があるのだ。その強大な破壊力を秘めた「シェル・ファランクス」が次々とダークティラノモンに降り注いだ。岩石のスパイクが腹を貫き、手足を押しつぶし、脳天を勝ち割る。一瞬にしてダークティラノモンの肉体は見るも無残な肉塊と化し、そして粒子となって虚空に消えていった。巨大亀の凄まじいパワーに圧倒された緋色は、粉塵の中にそびえるその威容を呆然と見上げているうちに、彼の首に何かベルトのようなものが巻かれていることに気づく。そしてベルトに沿って視線を下に下げていくと、ベルトの途中に何か小さなものが付いていた。亀甲の模様がペイントされた赤銅色の円形の物体だった。淵の部分にリブが付いており、中央部には液晶画面が付いている。それは色こそ違うものの、ダルクモンが持っていたD・バックラーにそっくりであった。「シールダーズ」隊員の証、D・バックラーと。

「ダルクモンさん、もしかしてあのデジモンは…」

“トータモン。シールダーズ隊員…つまり私の仲間だ”









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