草木も眠る牛三つどき、という言葉がある。昔の怪談の冒頭でよく使われる一文だ。事が起こるのは決まってその時間、午前2時前後。多くの怪談がそうであるように、少女もこの時間に異形の者に出会った。頭頂高が二メートルを超す細い体躯には不釣合いなほど大きな顔を持った怪物。顔が大きく見えるのは下顎が体を覆い隠すほど大きく口を開き、醜悪な笑みを浮かべているのもあるだろう。黒い体毛に包まれ、蝙蝠のような大きな羽を生やしたその姿は、悪魔そのものだった。

ボーイフレンドと別れた帰路の途中、道の真ん中で息を潜めていた怪物に出くわした瞬間彼女は踵を返した。『不細工な顔ね』と率直な感想を平然と口にするだけの胆力は残念ながら持ち合わせていない。わき目も振らず逃げ出す彼女を嘲笑うように、悪魔は声を上げて笑った。不気味な笑い声はやがて見たこともない文字の形をなし、“獲物”の背めがけて飛んでいく。少女に追いついた文字は彼女の周囲にまとわりつき、吸い込まれるように耳の穴に消え、彼女の頭の中に不気味なエコーを響かせた。瞬間、強烈な眠気が彼女を襲う。遊びの疲れすら忘れる危機的状況にもかかわらず、暴力的に襲ってきた眠気の前に彼女は目を伏せ、その場に崩れ落ちた。

悪魔は倒れた少女に爪を振り下ろすでもなく、うなされた寝顔を覗き込みケタケタとせせら笑う。その行動を戒めるかのように、闇夜を切り裂いて炎の矢が飛来する。すぐさま飛びのきブロック塀の上に逃げた怪物に、今度は矢を放った射手が直接殴りかかる。射手の姿は赤い衣を纏った天使。姿だけでなくその表情も、喜悦の表情を浮かべる悪魔とは対照的に口元を怒りに歪め、激昂していた。

怪物はブロック塀からも飛びのくと、最初に自分が少女を待ち構えていた場所に降り立つ。暗がりで一見分かり辛かったが、その場には魔方陣が描かれていた。魔方陣が悪魔を飲み込み、追う天使が伸ばした右手は空しく宙を切り悪魔の姿は消えてしまう。悪魔を逃した憤りから、天使は拳を魔方陣の消えたアスファルトに叩きつけた。天使はそのまま片膝をついたまま項垂れていたが、パトカーのサイレンの音を耳にすると少女を心配そうに一瞥し、飛び立ってその場を去る。後には悪夢の渦中にいる少女だけが取り残された。












Scarlet Hero

“九歳の春の日”

小悪魔型デジモン イビルモン
突然変異(ミュータント)型デジモン ピピスモン
恐竜型デジモン ダークティラノモン
堕天使型デジモン アイスデビモン
海獣型デジモン イッカクモン
水棲獣人型デジモン ダゴモン
登場








“今日も徹夜するのか、緋色?”

当たり前でしょ、と答える代わりに緋色はコーヒーを飲み干す。砂糖を入れる手間も惜しんで口に流し込んだブラックは彼が味わった事がない程苦く感じられ、思わず吐きそうになった。

“大丈夫か?”

平気!と答える代わりに緋色は顎をそらせ、目を硬く閉じて眉間にしわを寄せながら無理矢理喉に流し込む。しばらく苦味に耐えた後、漸く口を開いた。

「大丈夫だよ。徹夜も、コーヒーも。僕だってシールダーズの一員なんだ」

そういってコーヒーメーカーとカップを片付けるのもそこそこに玄関に向かう。その途中、リビングから消し忘れたテレビの音が聞こえてきた。

『謎の連続昏睡事件の被害者が、昨夜10人を突破しました。新しい被害者は都内の高校生の桑島綾子さん15歳で、友人達と遊んだ帰りに自宅付近の路上で倒れているところを発見されました。症状は他の被害者達と同じく、眠り続けたまま目覚める兆候を見せないという不可思議なものです。これまでの被害者達は午前0時〜3時の間に街灯等の少ない路上で倒れているところを発見されており、この奇病の発症は夜間の外出と関係していると思われます。また現場付近で大きな羽音を聞いたと言う証言や、奇妙な光や不審火、飛び立つ大きな影を見たと言う怪談めいた目撃情報が寄せられています。近頃都内を騒がせている『怪獣事件』との関連性も囁かれ…』

険しい表情を浮かべながら緋色はテレビを切った。イビルモン。この事件の犯人の名だ。ナイトメアショックと呼ばれるこのデジモンの笑い声を聞いたものは、覚めることのない悪夢へと誘われる。被害者達を目覚めさせる方法はただ一つ、悪夢へ誘った張本人を倒す事だけだ。イビルモンはここ数日の間、深夜に突然リアライズしてはナイトメアショックで通行人を襲い、すぐさまデジタルワールドへ逃げると言う行動を繰り返している。緋色のD・バックラーが反応を探知してから変身して現場に駆けつけるまでの間にイビルモンは姿を眩ましてしまうので、毎晩に及ぶ襲撃を止める事ができず、被害者は増えて行く一方であった。被害を少しでも未然に防ぎ、逃げる前にイビルモンを倒すために緋色はここ数日の間徹夜で街を見回っているのだ。

「このままじゃもっと、もっとたくさんの人が襲われる。だから休んでなんていられないんだ」

寝不足で充血気味の目を擦りながら、緋色は玄関を出てイビルモンの出現が集中している地区に向かった。たどり着く頃には既に深夜12時に近い時間になるだろう。まだ幼さを色濃く残した中学一年生の緋色を良識のある大人が見かけたら、声をかけられて何をやっているのか聞かれるのは確実だ。そのまま交番へ連れて行かれて補導される可能性は100%に近い。緋色はイビルモンが現れそうな街灯の少ない道を選び、人目につかないよう注意深く街をパトロールしている…つもりだった。

「緋色じゃんか!こんなところでなにやってんだ?」

目的の地区を見回り始めてすぐに、背後から声をかけられた。緋色は総毛立つ思いで恐る恐る振り向くと、友人の勝山善次が自転車の上から意外そうな顔をしてこちらを見ている。

「ぜぜぜぜぜ善ちゃんこそ何やってんの…こんな夜遅くに歩いてちゃ補導されちゃうよ?」

「おいおい、12時近くに通知表取りに学校に忍び込んだ奴の台詞かぁ?」

「あ、あれは電話してるときに相談したら善ちゃんがけしかけたんじゃない!」

「そうだったっけ?でも今日は俺は関係ないぜ?花火やろうって誘ったのに断ったのはお前じゃんか」

昨日、善次を初めとした友人達から花火をやろうと誘われていた事を思い出し、緋色はしまったと後悔する。集合場所だった公園はここからさほど離れていない。そこから善次の家への帰り道に当たるこの近辺を巡回するには、それ相応の注意をすべきだったのだ。

「や、やっぱり行きたくなっちゃって…」

「ふーん…じゃあ連絡してくれりゃあ良かったのに。俺携帯もってないけどさ、高山とか携帯持ってる奴にメール送るなり電話してさ」

「あ、そっか。僕買って貰ったばかりだからまだ慣れてなくて…」

「そうか…ま、いっか」

とり合えず善次は納得してくれたようで、緋色はほっと胸をなでおろす。苦しい言い訳であったが、どうにかこの勘のいい友人を欺くことができそうであった。

「お前こっからだと俺んちより家遠いだろ?乗せてってやろうか?」

「えっ…いいよ、二人乗りはいけないし、僕んち反対方向だし」

「俺は自転車だからすぐだよ。家に帰ってお前がいなかったら、あの親父さん警察に駆け込みかねないぜ?」

思い出し笑いを堪えながら善次は言う。父・葵(まもる)の溺愛の程を付き合いの長い善次はよく知っていた。父に心配をかけない為にパトロールに行く日はその対策の為に部屋に鍵をかけて、寝てるから起こさないでと父の携帯にメールを打つという対策はしてあるから心配はない(その割には翌朝目にした父が酷く落ち込んでいたのが不可解だったが)。そのことを緋色は説明しようとしたが、

“家に帰るときはどうするんだと聞き返されるぞ。ピッドモンに変身して窓から部屋に入ると説明するのか、緋色?”

ダルクモンに制止され緋色は慌てて口を噤む。返答に困っていると、ダルクモンの声が再び頭の中に響いた。

“緋色、ここは彼の好意を素直に受けよう。彼がこのまま自分の家に帰ったとしたら、イビルモンが何度も現れた地区を通る事になるんだぞ?”

言われて緋色は気付く。確かに、このまま善次を帰らせるとイビルモンに襲われる可能性が出てくる。自分の家から善次の家へまっすぐに帰った場合、イビルモンが出現した地区を通ることはない。そちらの道で善次を帰らせたほうが安全ではあるだろう。まだ0時までには時間がある。緋色は後でピッドモンに変身して大急ぎでまたこの地区に戻る事にし、この場は善次の好意に甘えさせてもらう事にした。

「じゃあ、乗せててって貰おうかな」

「よし、じゃあしっかり?まってろよ。でも良い子のみんなは二人乗りも夜遊びも真似すんなよ!」

「誰に言ってるの?」

「ノリだよノリ!」

そんな会話をしながら善次は自転車を走らせる。冷たい夜風を切る感触に緋色は軽い高揚感を味わう。ルールを破る快感ともいえるこの行為をいけない事だと感じつつも、また何時か善次と二人で夜遅く、こうして何処かへ出かけたいと緋色は思った。

「それで、神谷くんのお父さんが一番ノリノリだったの?」

「ああ。子供だけで火遊びのは危ないってついて来たのに、本人が一番はしゃいでんだもんなぁ。神谷んちの親父がいなかったらここまで遅くはならなかったぜ?」

「あーあ、僕も行きたかったなぁ」

「…なぁ、緋色。お前最近人付き合い悪くなったよなあ」

花火の事を話しながら自転車をこいでいた善次が、急に話題を変えた。また探りを入れられるのかと緊張し、緋色の顔から笑みが消える。

「遊びに誘ってものってこないしさ、余り家から出なくなったし。それにいつも帽子をかぶるようになってさ」

「…」

「あの日からだよな。お前の誕生日。夏休みの初日。怪獣に襲われた日。夜になるまでお前見つからなかったけど、やっぱりそのときの事なのか?今でも夢に見たりするのか?」

善次の言ったことはほぼ全て当たっている。緋色は最近友人達と会うことを避けていた。それが夏休みの初日、7月21日からだという事も的中している。

「そのことなら大丈夫…気にしたりしてないから…」

外れている点があるとすれば、ダークティラノモンに襲われた事がトラウマのようになっているのが原因だろうという点だ。あの日ダークティラノモンに遭遇する以前に緋色はデジモンに出会っている。日付が変わったばかりの時間に学校でピピスモンに襲われ、体を切り刻まれるという形で。ダルクモンと融合する事で一命は取り留めたが、頭に羽が生えたりピッドモンへの変身能力が備わる等の肉体の変質が起こった。それを知られたくないが為に、緋色は皆を避けていたのだ。

「ふぅん…。話したくないんならもう聞かないけどさ、なんか悩み事とかあったらいつでも相談に乗るぜ」

矢張り、何か隠し事をしている事を気付かれていたのだろう。それでも深くは追求しないでいてくれた善次の気遣いが緋色にはありがたかった。

「…ありがとう、善ちゃん」

「礼を言われるような事はしてねぇって。」

快活に笑いながら善次は答え、ハンドルを切る。次の瞬間、角を曲がった先の暗がりの中から大きな生き物の影が飛び出て進路をふさいだ。その影が牙を剥いて大きな笑い声を上げた瞬間、善次は驚き全力でブレーキを握り締める。二人乗りだった事もあって急ブレーキでバランスを崩し、自転車が派手に転倒し二人は道路に投げ出された。それとD・バックラーがデジモン反応を感知して警報を鳴らしたのは同時だった。

“緋色、D・バックラーを!ゲートの出口を造るんだ!”

転倒しながらも間髪いれずにダルクモンが指示を出す。緋色は叩きつけられた背中の痛みに耐えながらも、D・バックラーのボタンを操作しながら液晶画面を夜空に向ける。すると画面から光が放たれ、ゲートの出口となる魔方陣を空中に描いた。これでデジタルワールドにいる仲間がこの出口と基地イージスゲートを繋げば二つの世界を結ぶゲートが完成する。あとは緋色達がイビルモンから逃げるだけだ。善次の前で変身するわけにはいかない。

「善ちゃん!?」

だが緋色の目に飛び込んできたのは、頭から血を流している善次の姿だった。おびただしいと言うほどの量ではないが、軽い脳震盪を起こしているのか足取りがおぼつかない。間の悪いことに既にイビルモンの口からは醜悪な笑い声と共に悪夢の呪い文字が吐き出されている。緋色は迷うことなく飛び出した。

「善ちゃん早く逃げてっ!」

善次とイビルモンの間に割って入った緋色の体に紫に輝く文字が纏わりつき、耳の穴から吸い込まれるように中に入っていく。途端に気がおかしくなりそうなほどイビルモンの笑い声が頭の中に反響し、それと同時に猛烈な眠気に襲われ緋色は意識を手放した。

「ひ、緋色?」

意識が回復してきた善次がそれを目にし、また彼も叫んだ。自分に向かって倒れてきた緋色の背を受け止め、彼の顔が魘された寝顔であるのを見て善次は悟る。目の前の怪物が最近ニュースで騒がれている連続昏睡事件の犯人であるという事を。

「てめぇ、緋色に何しやがった!」

怪物は答えない。魘される緋色の寝顔を見てケタケタと笑うだけだ。以前であった黒い怪獣に比べると人間大に近いサイズで弱そうだった所為か、善次は逃げることよりも怒りにまかせて立ち向かう事を考えていた。それでも十分無謀な行為である事を、善次は知らない。逃げようとしない善次を見てイビルモンはこれ幸いとばかりに再びナイトメアショックの呪い文字を放つ。

「早く逃げろと言っただろうがっ!」

不意に、抱きかかえていた緋色がパッチリと目を開けて叫び、善次を道路に押し倒す。倒れる善次の頭上を紫色の文字が通過していく。

「え?え?」

善次が自分に覆いかぶさる緋色の顔をまじまじと見てみると、まるで別人のような様子であった。目つきが鋭く気が強そうで、普段の少し気の弱そうな姿とのギャップも相まって何か言おうとしても有無をいわず黙らせるような剣幕がある。

「お、お前起きてたの?」

善次がなんとか口に出来たのは間の抜けたその言葉だけだった。緋色は善次を無理矢理立ち上がらせると、「モタモタするな!」と叱咤しながら手を引いてその場から逃げ出す。イビルモンはその後を追おうとしたが、先程緋色が作ったゲートの出口からリアライズするデジモンの気配を感じ足を止める。正面から戦うのは御免とばかりに、自分がリアライズした魔方陣からデジタルワールドへと逃げ帰った。






「ハァハァ…あいつは追いかけてこないみたいだな…」

緋色に手を引かれ、この時間になっても車の往来の絶えない広い通りに出たところで善次は振り返る。怪物、イビルモンの姿は見られない。

「まったく、無謀にも程があるぞ!」

安全が確かめられた瞬間、緋色が耳元で怒鳴り声を上げた。思わぬ不意打ちに、善次は肩を竦ませる。一体何事かと振り向いてみれば、緋色が見たこともないほどの剣幕で怒っている。

「そこらの野良猫とはわけが違うんだぞ!人間がどうこうできる相手じゃないことがわからないのか!?何のために緋色が庇って「逃げろ」と言ったと思っているんだ!」

まるで別人のような振る舞いで緋色は畳み掛けるように怒鳴る。そのギャップに驚くあまり、自分が緋色の敵討ちとばかりに怪物に立ち向かおうとした事を怒っているのだと気づくまで、善次は数秒の時間を要した。

「あ。ああああああああ。うん、そういうことね、俺が悪かった悪かった」

「…本当か?二度とこんな真似はしないな?」

「わかってるって!何そんなに怒ってんだよ、お前らしくないなぁ」

“お前らしくない”善次が何気なく言ったその一言を聞いて、緋色は急に口を噤み、顔を赤らめる。そして先ほどまでの怒りが嘘のように萎縮し、そっぽを向いてしまった。

善次の言った言葉は実は的を得ている。緋色と肉体を共有するダルクモンの精神は普段は表に出ることはないが、宿主である緋色が眠る・気絶するなどして意識を失っている間は肉体の主導権がダルクモンに移るのだ。

「そ、そんなことないよ、善ちゃん」

「そうかぁ…?あ、そういやさ、さっきはありがとな」

「な、何のこと?」

「何って、さっき怪物の変な攻撃から俺を庇ってくれたじゃんか。前から思っていたけどよ、お前って結構根性あるよな!」

「それは…その…」

不意に、ダルクモンの視界の隅に黒いしみのようなものが目に入った。そちらに目を向ける間もなく、しみは一気に視界に広がり町を、街燈を、車を、目の前の善次を塗りつぶして彼女を漆黒の世界へ誘う。同時に、自身の体が強い力でつかまれ、真下に引っ張られるような感覚に襲われる。

「何だっ!?」

突然掴みかかってきた“手”を振りほどこうともがくが、体に密着した“手”は彼女を押さえつけ、離そうとしない。まるで地の底から手を伸ばした巨大な何かに掴まれて引きずり込まれるような感覚である。もがき続けるうちに、ふと手が硬い棒状の何かに触れた。腰の後ろ辺りにあるその感触に覚えがあったダルクモンは、考えるより先にそれを握り締め、“抜刀”する。次の瞬間、何かを切り裂く手ごたえと同時に体にまとわりつく“手”の感触も、下に引っ張られる感覚もたちまち消えてしまった。

「これは…!」

ラ・ピュセル。二振りで一組の、肉体を失う前の彼女の愛剣の片方が、確かに手に握られていた。腰の後ろに手を回せばその鞘も、もう片方のラ・ピュセルもそこにくくりつけられているのが分かる。それだけではない。6枚の羽も、金色のマスクも、ベルトや装身具も、それを纏う人間の成人女性に酷似した肉体も、全てそこにある。失われたはずのダルクモンの肉体が、全て戻ってきているのだ。

「これは…いったい…」

「何か妙な存在を感じるかと思えば…」

とまどうダルクモンの耳に、不気味なしゃがれ声が聞こえる。目を凝らして暗闇の中を見てみれば、足元よりも下方、暗闇の中に溶け込むようにぼやけたイビルモンの姿が見えた。

「まさかこんな所にまでシールダーズのデジモンがいるとはな。恐れ入った」

「貴様は…あのイビルモンなのか!?」

「いかにも。お前さん方が倒そうと躍起になっているイビルモンだよ」

ククククッ、と目を細めるイビルモンに対し、ダルクモンは殺気を向け臨戦態勢をとる。イビルモンという種は直接的な攻撃力に乏しく、また目の前の個体が何度も自分達から逃げていることから正面からやりあって負けるとは思っていない。しかしこの空間が何なのか、自分の身に何が起こったかわからない現状では下手に行動に移ることは命取りに繋がりかねず、ダルクモンは冷静に状況を判断するよう努めた。

「ここは精神の中…つまりお前さんが寄生している坊主の頭の中ってわけだ」

寄生という表現にダルクモンが僅かに繭を潜めたのを知ってか知らずか、構わずにイビルモンは言葉を続ける。

「この坊主の意識を悪夢の中に引きずり込んでやったと思ったら、妙なことに独立した別な意識が感じられたんでな…。そいつも悪夢の中に引き込んでやろうと思ったらこの様よ」

イビルモンは暗闇の中から右手を掲げる。右手の指は全て失われており、切り口は鋭利な刃物で切られたよう綺麗な切断面だった。

「ここは精神世界だから私は本来の肉体と同じように動けるということか…。貴様は何をしようとしている?人間達を悪夢の眠りに落として何を企んでいる!?」

「その答えは…これから見せましょうかね」

そういい終えた瞬間、イビルモンの指が切断面から生えてきて再生する。そして再生した指が動くことを確かめるように指を動かすと、踵を反して下方、より暗闇の濃い場所へ
と潜っていく。

「待てっ!」

ダルクモンは急降下してそれを追うが、イビルモンの動きは予想以上に早くみるみるうちに引き離され、その姿が米粒のように小さくなる。やがてその姿が暗闇に溶けるように見えなくなった頃、延々と続く暗闇に変化が生じた。下から上に向かって蛇行しながらのびる光の線が見えたかと思うと、その線にそって光の玉が目にも留まらぬ速度で昇っていく。それが無数に現れたのだ。なんだと口を開く暇もなく、ダルクモンにはとても回避できない速度で上昇してきた光の玉がダルクモンに激突した。

「っ!?」

瞬間、辺りの風景が変わった。硬いフローリングの床、白い壁紙。大人三人分が優に座れそうな広いソファーに、男女が腰をかけて正面に置いてあるテレビを見ている。男は細面で生真面目そうな顔をしており、髪型はオールバックだ。女性の方は見事な長い黒髪と、釣り目気味のすこし子供っぽい輝きを宿した目が印象的だった。時代劇を見ながら談笑する夫婦と思しき二人とテレビの間に、彼らの子供が割り込む。

「おかあさんおかあさん!みてみて!」

子供の腰には、おもちゃのベルトがついていた。バックルの部分には何かつける為か、長方形のスペースが開いている。子供が手に持った玩具の携帯電話のボタンを押すと、電話から電子音が鳴りだした。

「変身!」

携帯電話を掲げ、そう叫んでベルトの長方形のスペースに電話を押し込むとベルトが発光して、派手な電子音が鳴った。得意げにポーズを決める子供に向かって、母親がパチパチと手を叩いた。

「かっこいいわよ、緋色。でもちょっとTVの前からどいてくれると嬉しいかな」

「はーい!とうっ!クリムゾンスマ―――ッシュ!」

そう言って緋色と呼ばれた子供は、またベルトの音を鳴らした後に母親のとなりにいた父を蹴り飛ばした。

「う・わ―――――――っ!や・ら・れ・た〜!」

不意打ち気味に放たれた蹴りに顔を少し引きつらせながらも、父は両手を広げ横に倒れながら妻の傍を空けた。そこにすかさず子供が割り込み、母に向かって肩を寄せる。

「あらあら、甘えん坊なヒーローさんね」

そういって母が悪戯っぽく微笑んだ。なんと言われてもかまわないとばかりに、子供はぴったりと体を母にくっつける。やがてその光景は白んで薄れていき、辺りは再び暗闇へと戻った。振り向いてみれば、ダルクモンの体を通過した光の球がはるか頭上へと上っていきすぐに見えなくなっていく。

「今のは…緋色の記憶か?」

緋色と呼ばれた、小学校3年生くらいの子供。現在よりもしわの少ない父、葵。そして今現在の泉戸家にはいない人物。おそらく、自身が見ていたものは緋色の記憶の一部で、こうして頭上へと流れていく光の玉の一つ一つが緋色の記憶なのだろうとダルクモンは検討をつけた。この“記憶の海”でイビルモンが何をしようとしているのか―――――――それが何かおぞましいことであることを直感し、ダルクモンは降下する速度を速める。まもなく奇妙な光を彼女は見つけた。目にも留まらぬ速さで上昇する光の中にあって、一つだけ微動だにしない毒々しい紫色の光。まるで待ち構えていたかのように佇むそれに、ダルクモンは迷うことなく飛び込んだ。





―――――――目の前に広がる“記憶”は焦げ茶色の落ち着いた内装のファミリーレストランの中だった。昼食時でにぎわう店内を、店の奥、入り口とちょうど対角線上の壁際からダルクモンは店内を見渡す。先ほど垣間見た記憶の年齢とさほど変わらぬ緋色と、あの長い髪の女性、緋色の母の美登里が向かい合って座っている姿が入り口に近い席で見とめられた。ちょうどウェイトレスがアイスクリームとフルーツで彩られた楽しげな色彩のパフェを運んできたところだった。緋色は目を輝かせてそれを食べ始めた。

「緋色ももうすぐ四年生、今年の夏にはもう10歳なのね。長かったようであっという間…」

幸せそうな息子の姿を眺めながら、美登里はお腹を痛めて緋色を生んだ日から今日までの10年近い月日に想いをはせる。そして、ふと頭に思い浮かんだことを何気なく口にした。

「あと10年たったらどんな大人になっているのかしら」

「んー、コームインじゃないのかな」

目の前のご馳走を味わうことの方が大事なのか、緋色は二つ返事で答える。

「あーら、お母さんはてっきりTVでやってるみたいなヒーローさんになるんだと思っていたわ」

「もう、僕だっていつまでも子供じゃないよお母さん!」

「あーら、それじゃあその袋の中身はなーにかしら♪」

そういって美登里は緋色の隣に置いてあるビニール袋を指差す。大手玩具チェーンのロゴがプリントしてあるその袋を尻の後ろに隠しながら、緋色は膨れっ面を作った。

何の変哲もない、他愛のない母子の昼食風景。ダルクモンは気づかぬうちに僅かに表情を緩ませていた。血の繋がりと言うもののないデジモンといえど、父と慕う人物のいるダルクモンは親子愛と言うものは理解しているつもりだ。現在の泉戸家では葵が仕事で夜中まで帰宅せず、緋色が親と顔を合わせていられるのは朝起きてから出勤するまでと帰ってきてから寝る前までの僅かな時間だけである。そんな緋色の、家族と過ごしているとき種類の笑顔を見るのは初めてであった。



そして、突然にそんな笑顔は切り裂かれる。



「キャァァァァァァっ!?」

不意に、甲高い女性の悲鳴が店内に響く。一斉に集まった人々の視線の先には、カウンターの奥で震える店員と、入り口近くで腹を押さえて蹲るもう一人の店員。そして目だし帽を被り、拳銃と血まみれのナイフを持った長身の男が入り口を塞ぐように聳え立っていた。悲鳴の訳を一瞬で理解した店内の人々が連鎖的に悲鳴を上げると、間髪いれずに破裂音が二回立て続けに響き、シャンデリアが割れてガラスの破片が飛び散り、客の一人が胸から血を流してもんどりうって倒れた。

「騒ぐな!騒ぐんじゃねぇっ!」

銃口から硝煙の昇る拳銃を振り回し、男は手近にいた客の頭を台尻で殴り倒す。見れば男の目は真っ赤に充血し、パニックに陥った店内の人間と同等かそれ以上の焦りと混乱に支配されている。いつの間にか店の外には数台のパトカーが集まっており、警官がレストランの周りを取り囲みつつあった。どこぞで強盗行為を働き、逃げる途中で苦し紛れにここに逃げ込んだ男は完全な恐慌状態に陥って、「騒ぐな」と喚き散らしながらナイフと拳銃を振り回し、手当たり次第にテーブルを蹴り飛ばす。自然と人々は入り口付近から離れ、我先にと反対方向の壁際に張り付く。その人の波に取り残されるように、緋色が入り口付近の席に残っていた。恐怖で身が竦み、座った姿勢のまま泣きじゃくっている。それを目に留めた目だし帽の男が、絶叫しながら拳銃を緋色に向けた。

「「緋色っ!」」

更に叫び声が二つ、店内に木霊する。一つは緋色を庇うように男の前に躍り出た彼の母親、美登里の叫び。もう一つは思わず飛び出そうとしたダルクモンのものだ。しかし、ダルクモンの右足はまるで床に張り付いたかのように動かず、間に割って入る事は叶わなかった。足元を見れば、床から生えたイビルモンの右手が足首をものすごい力で掴んで押さえつけている。

「そう野暮なことをしなさんなって。ここからがいいところなんだ。もっとも、お前さんが何かしたところで結果が変わるわけでもないがな」

イビルモンがそう囁く間に銃声が四発立て続けに響き、事の終わりをつげる。銃弾の一発目は足に、二発目、三発目は胸に。そして最後の一発は即頭部を貫き、腰元まで伸ばした長い髪を振り乱して美登里は床に伏せ、動かなくなった。

「………お母さん?」

目の前で倒れた母の姿を見て、ようやく緋色は我に返る。のろのろと椅子から起き上がり、床に膝を着いて母の傍に屈む。

「おかあさん、おかあさん」

床に突っ伏した母の肩を揺する緋色。昼寝している母を起こすときと同じように、何度も呼びかけながら懸命に肩を揺するが、目覚める様子はなかった。

「ヒッ!?」

不意に膝に触れた生暖かい感触に思わず立ち上がると、膝にべっとりと赤黒いものがこびりついていた。床を見下ろすと、母の体を中心に真っ赤な水溜りが広がっている。不自然で非現実的で、ありえないほど滑らかで赤い血溜りが。ぺたり、と力が抜けるように緋色は床にへたり込む。一瞬の間を置いて、ようやく何が起こったかを理解した緋色の慟哭がダルクモンの耳を劈いた。

「お母さん!お母さんっ!僕のせいなの!?僕のせいでお母さんが…!」

泣きじゃくり、喉が張り裂けんばかりに叫びながら緋色は美登里の遺体にすがり付く。二度と目を覚ますはずのない母の肩を揺さぶる。悲痛な光景を目の当たりにし、ダルクモンは目を背けそうになった。

「緋色…」

母親の死という、緋色の精神の中に暗い影を落とす悲しい記憶。そこに誘い込んでイビルモンは何をしようとしているのだろうか?

「そうだ、お前のせいだ」

緋色の慟哭が支配する空間に、異質な声が割り込んだ。緋色が顔を上げると、目だし帽の男が凶器を持った両手をだらんと垂らして立っている。目の充血は引いており、どんよりと濁った目が緋色を見下ろしていた。

「はい、お客様の所為でございます」

「そちらのお客様はお客様を庇って死にました」

カウンターの後ろに伏せていた店員と、腹を刺されて蹲っていた店員が顔だけ上げて呟く。二人の目も男と同じように濁っており、そして能面のように無表情だった。

「ぼうやのせいだね」
「君がいなければ君のママは死ななかったわ」
「あなたが悪いよ」

反対側の壁際に逃げていた客達も顔を上げる。やはり、一様に濁った目をして能面のような表情をしている。「ひ」と緋色がうめき声を上げた。

「これは…!?」

何かがおかしい。今見ている光景が緋色の記憶ならば、こんなことが起こりえるはずがない。場の空気が、いつの間にかまったく別種のものへと変わっている。

「お前の所為だ」
「あの時お前が大人しくしていれば」
「泣きじゃくらなければ」
「母親は死なずにすんだ」
「お前が死に追いやったんだ」

店員が、客達が次々と立ち上がり緋色を攻め立てる言葉を口々に呟く。その大合唱を前にして、緋色は呻いて後ずさることしか出来なかった。

「う、あ、やめ、て」

せめても抵抗か、緋色は辛うじて聞き取れる程度の掠れた声を出す。子供の小さな体がさらに小さく見えた。今にも絶叫してしまいそうな顔をして、ガタガタと震えている。

「な、面白くなってきただろう?」

不快な囁きが聞こえると同時に、天井から黒い闇が染み出し、それが実態となってイビルモンを形作る。醜悪な笑みを浮かべるイビルモンを、ダルクモンは強く睨む。それにかまわず、天井に逆さに張り付いたままイビルモンは楽しそうに語り始めた。

「俺は元々、俺のナイトメアショックで魘される奴らの苦しそうな寝顔って奴が大好物でねぇ…。だがそのうち魘される顔だけじゃ物足りなくなってね。奴らが見る“悪夢”って奴を直接見てみたくなったのよ」

「…そこに奴らが…ヘキサゴンヘブンズが現れたという分けか?」

「ビンゴだ。アクトモンって奴が俺の事をたいそう気に入ってくれてな。俺に悪夢の中に入り込む力を与えてくれたよ。普通ナイトメアショックは聴覚から進入するウイルスで相手を強制的に眠らせて、精神の中のトラウマや恐れている事を悪夢として呼び覚ます技だ。が、“調整”を受けた俺の場合はちょっと違う。信号化した分身を相手の聴覚から脳髄に、精神に送り込むんだ」

「分身、だと…?」

「そうだ。ここにいる俺はデジタルワールドにある肉体とリンクした分身であり…そして感覚を共有した本体でもある…とか言ってたか。まぁ難しいことは俺にも分からんがな。とにかく俺はこうしてナイトメアショックで眠らせた奴の精神に潜り込み、その悪夢をすべて同時にリアルタイムに見物できる。そして…」

イビルモンがそこで言葉を切ると同時に開け放たれたレストランの扉からスーツを着た男性が店内に足を踏み入れた。緋色の父、そして美登里の夫である葵だ。

「緋色」

「お父、さん…?」

父の姿を見止め、緋色の表情に僅かに安堵の色が浮かぶ。周りにいる人間から一斉に責めたてられ、擦り切れるように疲弊していた心は、無意識のうちにこの世でもっとも安心できる人物を求めていた。

「お前の所為だ」

しかし緋色の僅かな希望をも裏切り、葵も周りの人々と一言一句違わぬ言葉を口にする。だが言葉以上に緋色の心を抉ったのはその表情だった。見上げた父の顔は、泣き腫らした顔でもなく未見に皺を寄せた憤怒の表情でもなく、ましてや笑顔でもない。無表情だ。内から沸く底無しの悲しみを無理に抑えているが故の、必死の無表情だ。心配性で、家族絡みとなると思っている事がすぐ顔に出る父が、美登里の死後しばらくの間にだけ見せた顔をしている。直視できず、緋色はその場に崩れ落ちた。

「うあああああああああああああああああっ!僕が、僕がお母さんを!僕の所為で!僕がっ!僕がっ!僕がっ!僕がっ!僕がっ!僕がっ!僕がっ!僕がっ!僕がっ!僕がっ!僕がっ!僕がっ!僕がっ!僕がっ!僕がっ!僕がっ!僕がっ!僕がっ!僕がっ!僕がっ!僕がっ!僕がっ!僕がっ!僕がっ!僕がっ!僕がっ!僕がっ!僕がっ!僕がっ!僕がっ!僕がっ!僕がっ!僕がっ…」

追い詰められた強盗犯よりも、パニックを起こした食事客よりも、この場にいた誰よりも激しい狂乱状態に陥りながら緋色は自分の頭を、顔を掻き毟る。狂的に自身を責めるその様を見ても、無慈悲な人影達は断罪を止めようとはしなかった。

「こうして記憶やイメージを使ってオリジナリティ溢れる悪夢を作り出せるってわけ…だっ!?」

イビルモンが一呼吸するよりも早く、一陣の疾風がその首を跳ねた。全身の血が沸騰するかのような怒りに任せて、ダルクモンが剣を抜いたのだ。

「下衆が…!他人の記憶を…心をなんだと思っている!?」

「いくら弄んでも飽きる事のない…最高のオモチャさ。違うのかい?」

天井から落ちるイビルモンの首が即答し、怒りのあまり涙を滲ませているダルクモンをあざ笑う。同じく天井から離れた胴体が落ちた首をキャッチし、緋色の傍に降り立つ。

「無駄だよ、無駄なのさ。ここは現実じゃなくてこの坊主の精神の中。俺はあんたの精神をハッキングすることは出来ないが、坊主の頭ン中に間借りしている限り、坊主の精神を支配している俺には勝てないのさ」

せせら笑いながら、イビルモンは首と胴体の切断面同士を合わせる。すると首は繋がり、跡も残さず再生してしまう。先ほどの指の例とあわせるまでもなく、イビルモンがどんなダメージを受けても再生してしまうことが証明されたが、激しい怒りに突き動かされたダルクモンの中には抵抗を止めるという選択肢は存在していなかった。

「緋色から…離れろっ!」

「やれやれ、お前さんも俺に負けず劣らず頭が悪い…」

ぼやきながら、イビルモンは後ろに飛びのいて窓を割って店外に飛びのく。要求どおりに緋色から離れられ、面食らったダルクモンの視界に突如巨大な蝙蝠のような影が出現した。

「何っ!?」

蝙蝠のような影は鋭い鎌の突いた腕を振り下ろし、動揺するダルクモンの肩に深々と突き立てる。ダルクモンは痛みと、動揺して隙を作った自分の不甲斐なさに顔をしかめた。下手に交代して引き抜こうとすれば傷口が広がるだけと即座に判断して、そのまま体当たりを食わせるように突進し、相手と一緒にイビルモンに続いて店外に飛び出す。そうやって体制を崩した隙に鎌をへし折り、突き飛ばして距離を取った。

通行人も車もいない大通りに投げ出された敵の姿は、四肢の先が鎌になった人間大かそれ以上のサイズの蝙蝠の怪物。突然変異(ミュータント)型デジモン、ピピスモンだ。以前、ダルクモンが戦い、そして緋色を死の淵に追いやったデジモンと同種である。

「ピピスモン…?まさか…」

「そのまさかさ。別な記憶からここに来てもらったんだ。せっかくだからこの場を借りてあいつらに雪辱戦の機会でもくれてやるとするかねぇ…」

“あいつら”。嘗て緋色が初めてデジモンと、ピピスモンと遭遇したとき、その数は一体ではなかった。それを覚えていたダルクモンは正面から突っ込んできたピピスモンを迎え撃とうはせず、翼を広げ全速力で上昇する。正面、そして斜め後ろ二方向から突っ込んできたピピスモン達計三匹は急停止し、そのままダルクモンの後を追い垂直に上昇する。そして三方向に分かれ、急旋回して再びそれぞれが三方から襲い掛かった。

「パテール・デ・アルーム!」

ラ・ピュセルの二刀流が舞い、襲い掛かるピピスモン達は一瞬でスライスされる。そして何事も無かったかのように再生し、再び襲い掛かる。それが何度も繰り返される。ダルクモンは、自身の怒りや闘志が蓄積される疲労と引き換えに急速に奪われていくのを感じていた。その理由は、この単調なダンスに終わりが見えてこないからだけではない。

(なんだ…これは…ピピスモンが…怖い!?)

ダルクモンの目に映るピピスモンの姿は、鎌は、牙は、眼は。自身が知る“ピピスモン”よりも遥かに禍々しく恐ろしいものとして映っていたのだ。心臓が萎縮し、手足と羽が痙攣して竦みそうになる感覚が全身を苛んでいる。よく考えてみれば、目の前にいるピピスモンは現実に存在しているピピスモンではなく、緋色の目を通して脳裏に記録された、実態から多少なりとも歪曲された記憶と言う名の情報なのだ。生死をかけた戦いとは無縁の世界にいた緋色が初めて遭遇した戦闘種族の生物、ましてやそれが自分に明確な殺意をもっていたのならば、実際よりも遥かに恐ろしいものとして記憶していてもおかしくは無い。

「緋色は…いつもこんな気持ちで戦っていたのか!」

今にもここから逃げ出したい気持ちと戦いながら、ダルクモンは剣を振るう。そして三体の敵がスライスされる手応えが剣から伝わるや否やの瞬間に、その場から全速力で離脱して離れる。再生する間に距離を取りイビルモンに攻撃するチャンスを伺うという魂胆が半分、恐ろしい相手から少しでも離れたいという思いが半分の行動だった。だが次の瞬間、ダルクモンが離脱した方向にあった建物が音を立てて崩れ、粉塵の中から彼女を握りつぶせそうな程大きな腕が現れる。

「何っ!?」

瓦礫を乗り越え現れたのは、漆黒の体を持ち、直立歩行する恐竜型デジモン・ダークティラノモン。緋色が友人達と行ったカラオケボックスを襲ったデジモンだ。出会い頭に吐きかけられた火炎の吐息「ファイアーブラスト」を急降下して回避したダルクモンの眼に、更に二体のデジモンの姿が飛び込んでくる。一体はダルクモンとほぼ同サイズのアイスデビモン。もう一体は毛むくじゃらの巨大な体に長い牙と角を持つイッカクモン。この二体も先の4匹と同様、以前緋色が戦ったデジモン達だ。アイスデビモンは空中の水分を凝固させて作った無数の鋭い氷柱をダルクモンに、そしてイッカクモンは頭部の長い角を空中に向かって発射する。

行動は読めている。アイスデビモンが相手をひきつけ、イッカクモンの撃った誘導生体ミサイル「ハープーンバルカン」が挟み撃ちにする。以前もこの二匹が使ってきた手だ。その手には乗らないとばかりにダルクモンは地面スレスレに飛行して氷柱を回避し、二匹の足元をすり抜け、路地へと逃げ込む。外装を脱ぎ捨てターンして追いかけてきた緑色の生体ミサイルは、狭い路地に阻まれて標的に辿りつくことなく爆発する。

(路地に逃げ込めたのは好都合だ。このまま建物の影からイビルモンに近づいて――――)

「とでも考えているのかも知れねぇがな、近づいたところで何か出来るのか?」

ダルクモンの考えていることを見透かすかのように、イビルモンのせせら笑うような声が不意に耳元に響く。間髪いれずに、路地の隙間をぬって青黒い触手が彼女に向かって殺到する。剣を振るう暇さえ与えず、生臭い滑った触手がダルクモンの手足や胴を締め上げ、路地裏から引きずり出す。触手の先にいたのはそれを束ねて巨大な人型を形作った水棲獣人型デジモン、ダゴモン。以前緋色のクラスメイト、五十鈴唯菜の乗る地下鉄を襲った完全体デジモンだ。そのパワーや触手の動くスピードは、成熟期のダルクモンの比でない。

「諦めな。最初から詰んでたんだよ、お前さんは」

触手の塊であるダゴモンの体に手足を引きずり込まれ、貼り付けにされたような姿になったダルクモンの前にイビルモンが降り立った。尚も睨み続ける彼女をあざ笑うように、細い触手の一本が頬を撫でる。

「この精神世界にいる限りお前さんの位置は手に取るように分かる。俺は坊主の記憶からいくらでも兵隊を呼び出せる。加えて精神体でもある俺への攻撃は暖簾に腕押し。意味がないって事だ」

イビルモンは自らの顔に爪を食い込ませ、その傷が再生する様を見せ付け勝ち誇る。しかしダルクモンは絶対的優位を見せ付けられても、触手から逃れようと足掻くのを止めようとはしなかった。それを見てイビルモンはあきれたようにため息をつく。

「ハァ…お前さんに出来ることはたった一つ。そこで俺の作品をおとなしく眺めていることだけさ。何故それがわからない…」

ダゴモンが体の向きを変え、先ほどのレストランの方向を向く。店内には自らの顔を掻き毟り、顔を真っ赤した幼い緋色の姿があった。

「緋色っ!」

「僕が…僕がいなければ…」

うわ言の様に自責の言葉を呟く緋色の目はうつろで、心ここにあらずといった様子だ。それでも既に罵声へと変化した周りの人々の声はかろうじて届いているようで、時折声に反応して「ヒッ」と呻いて体を震わせている。

「緋色、お前の所為で美登里は死んだ。お前が殺したも同然だ。お前なんて生まれてこなければよかったんだ」

「うわあああああっ!ごめんなさい!ごめんなさいお父さん!ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい…」

悲しみを耐えている表情で、容赦なく葵が緋色を責めたてる。無論、そこにいるのは緋色の記憶の中から表情と声をツギハギしただけの粗悪品の人形に過ぎない。緋色を溺愛していたあの父親が「生まれてきて来なければ良かった」などという残酷な言葉を使うはずがないのだ。

「“作品”だと!?こんな出鱈目なまやかしの何処が作品だ!吐き気のするほど醜悪な、ただの悪夢だ!」

「…そいつは素人考えって奴さ。あんたはこいつの事を何も分かっちゃいねぇ」

自信たっぷりに、得意げにイビルモンは唇の端を釣り上げた。“何も分かっていない”という言葉とその表情に、ダルクモンが僅かに狼狽する。

「あの木偶どもは俺が口から出任せを喋らせているわけじゃねぇ。ピピスモン達が坊主の記憶と精神から作ったものなら、あの言葉も坊主の精神が大本だ。坊主は周りの人間が、親父が自分の事をあんなふうに思っているんじゃねぇかと…いや、それだけじゃねぇ。坊主自身も自分が親を殺したも同然と思っているのさ!俺は心の奥で影を潜めていたそれを起こしてやっただけよ!」

あれが緋色の心の、精神に由来するものならば、緋色は自分で自分を責めたてているというのだろうか?イビルモンの言葉を聞き、ダルクモンは自分の胸に重く冷たい感触を感じる。それが悲しみという気持ちなのだと気づくのには少し時間がかかった。

「痛い…痛いわ緋色…」

「!」

床に突っ伏していた美登里が顔だけを緋色に向ける。顔は一面が赤黒く染まり、振り乱した長い髪の毛が乱雑に張り付いてそこから焦点の定まらない目が覗いた、生前の面影をまるで残さない恐ろしい形相をしている。

「貴方がいなければ…こんな痛い目に合わなかったのに…。
私は死んだのに…何故貴方はまだ生きているの…緋色」

緋色が絶叫した。人か獣かも分からないかのような声の、聞いた方も気が狂いそうな悲鳴だ。ダルクモンはいつの間にか涙を流していた。イビルモンはそれが最高の賛辞であり、滋養とでも言うかのように満足げに笑う。

「僕が…僕があの時母さんの代わりに死ねばよかったんだ!僕は生きてちゃいけない子だったんだ!」

事跡の念はとうとう自己の存在を否定する言葉を緋色に吐き出させる。掻き毟った傷から流れた血が血涙のようにも見える、絶望と自己嫌悪に苛まれた表情をしている。ダルクモンの知っている緋色とは違う。泉戸緋色とは、もっと笑顔が似合う少年であったはずだ。子供っぽい緋色。少し気弱な緋色。危機に晒される人々の為に戦うことを決めた緋色。肉体を失った自分を気遣ってくれた緋色。自分にとって、いつのまにか愛おしい存在になっていた緋色。その緋色が今、苦しんでいる。母親を死なせてしまったという自責の念に押しつぶされそうになっている。胸が張り裂けんばかりの悲しみが、ダルクモンを叫ばせた。

「違うっ!そんなこと絶対にないっ!」

「無駄だ。お前さんの声なんてとどきゃ…」

「緋色!お前は私に命を救ってもらったと思っているようだが、私だってお前に命を救ってもらっていた!あの時、私の体はリアライズリミットを越えて消滅しかかっていた!お前と肉体を共有することで私は今もここにいられるんだ!緋色、お前がいなければここに私はいなかったんだ!感謝してもしきれないのは、私の方なんだっ!」

イビルモンの声など、とうに耳に入ってこなかった。堰を切ったようにあふれ出すそれまで認知すらしていなかった気持ちが、緋色への感謝が、愛おしさが、想いが喉よ張り裂けろとばかりにダルクモンを叫ばせていた。

「私には死んだお前の母さんや、残された父さんが何を思っているのかは分からない!だが、お前なら分かるはずだ!聞こえるはずだ!お前を…ムグッ!?」

「無駄だっていってるのがわかんねぇのかこのアマッ!誰の声もあいつにはとどきゃしねぇんだよっ!」

ダゴモンの触手の先端が口にねじ込まれ、強制的に叫びは堰き止められる。しかし、動き出した流れを止めることは既に適わなかった。既に緋色は自責の言葉を口にするのをやめ、レストランの天井を、その向こうの天を仰いでいる。


“緋色っ!おい緋色しっかりしろ!お前に庇ってもらって俺一人だけ助かってもちっとも嬉しくねぇんだぞ!それがわかんねぇお前じゃねぇだろぉ!?”


“緋色!緋色起きてくれ!美登里に続いてお前まで失ったら、父さんはどうやっていきてきゃいいんだっ!美登里にどんな顔で詫びればいいんだっ!?”


ダルクモンの言葉通り、緋色には分かっていた。聞こえていたのだ。緋色自身がそれを認識した瞬間、悪夢は覚めた。緋色を中心に、まばゆい光がレストランの店内を満たし、自責の念が生み出したうつろな影達は消えて行く。そして光が収まる中から現れた二枚の翼を持った人影が、無数の炎を矢のように放った。

「うおあああああああっ!?」

向かってくる熱源を感じ取り、光に目を伏せたままイビルモンは横に飛びのく。炎の矢はイビルモンの傍にいたダゴモンの触手の一部を焼ききり、ダルクモンを開放する。彼女は歓喜し、叫んだ。光の中から現れた人物の名を。

「―――――――――緋色!」

緋色、と呼ばれた天使型デジモン、ピッドモンは微笑を彼女に返した。心底嬉しそうに、ダルクモンは彼に駆け寄る。

「ありがとう、ダルクモンさん」

「言ったはずだ。礼をいうのは私の方だとな」

言い尽くせぬほど感謝の気持ちは、互いに同じ。だが、それよりもまず――――――――

「熱ィ!熱ィぞぉ!?火傷が再生しねぇ!?それどころか俺の肉体にフィードバックされてやがる!!」

イビルモンは右手首を押さえて苦悶の表情を浮かべていた。押さえている右手は先ほどの炎が掠ったのか、焦げて肉の焼ける臭いを漂わせている。

「緋色の精神世界は貴様の呪縛から抜け出した。どうやらもう自在に再生は出来ないようだな。ダメージが肉体にフィードバックされるというのなら…ここにいる貴様を倒せばデジタルワールドにあるお前の肉体も消滅するということだな?」

「眠らされた人達を解放するんだ、イビルモン!」

「くっ…形成が逆転したとたんいい気になりやがって。ここで御免なさい許してくださいというくらいなら、ハナっからこんなことしてねぇんだよっ!」

イビルモンが叫ぶと当時にそれまで沈黙を保っていた三匹のピピスモン、ダークティラノモン、イッカクモン、アイスデビモン、ダゴモンが動き出す。緋色の記憶から呼び起こされ未だ支配下に置かれたデジモン達が殺到し、二人の運命は万事休すかと思われた。事実、片割れのダルクモンは五体満足では抜けられない事を覚悟していた。だが次の瞬間、彼女は現実の世界ではありえない光景を目にする。

「ピッドスピードッ!」

緋色の、ピッドモンの姿が掻き消えたかと思った瞬間、一番接近していたピピスモン達の背後に現れた。その次の瞬間にはピピスモン達の体が砕け、粒子化し虚空に雲散霧消する。目にも留まらぬ速度まで加速する技“ピッドスピード”を使い、視認出来ない速さまで加速してロッドで打ち据え、貫き、引き裂いて三匹のピピスモンを一撃の下に倒したのだ。

「んな馬鹿なっ!?」

イビルモンが声を上げる。ダルクモンも同じように驚愕していた。最初の頃に比べれば戦い慣れしてきたとはいえ、単なるロッドの一振りでデジモンを倒すことが出来るほど強くなってはいないはずである。頭に疑問符を浮かべる二人をよそに、緋色は火炎を吐き出そうとしているダークティラノモンへと向かっていく。

「ファイアーブラスト!」

「アポロントルネード!」

怒涛のような勢いの紅蓮の奔流に、緋色は回転させたロッドに纏わせた炎の渦を盾にして突っ込む。ダークティラノモンに比べてピッドモンのそれはあまりにも小さく、勝敗は火を見るよりも明らかであった。だが、精神世界に移るのはやはり現実にはありえぬ光景。アポロントルネードの渦がファイアーブラストの奔流を掻き分け、流れに逆らいダークティラノモンの頭部へ向かっていく。逆流した自らの炎と、火炎の渦を纏った突撃を暗い、漆黒の怪獣の頭が吹き飛ぶ。残った体は崩れ落ちるように粒子化し消えていった。

「…所詮はただの記憶、ということか。緋色の精神の中に存在するものならば、緋色が支配から逃れた今、気の持ちようでどうにでもなるということか」

それらの一つ一つは恐ろしい記憶かもしれない。だが、それは既に過ぎ去った過去であり、緋色自身が勇気を振り絞れば、物理的な障害とはなりえない。あのときまったく歯が立たなかったはずのダークティラノモンをいとも簡単に砕いて見せた緋色を見て、ダルクモンはそう悟る。自身も勇気を振り絞り、緋色と併走して自身が対峙したときよりも恐ろしげな敵たちへと向かっていく。

「緋色。アイスデビモンは私が仕留める。お前はイッカクモンを!」

「分かった!」

頷き、一気に敵との距離をつめる緋色を阻もうと、イッカクモンは至近距離から角を連続発射し、すぐさま爆裂させた。膨れ上がる炎と爆煙の中にピッドモンの姿が消え、それを見ていたイビルモンは一瞬勝利を確信する。だがその一瞬の確信は一瞬で否定される。爆煙の中から“不発弾”を抱えたピッドモンが飛び出し、角が生え変わる途中のイッカクモンの額にそれをつきたてる。更に金槌で釘を打つようにロッドを角に叩きつけ、誘爆させてイッカクモンの体を爆散させてしまう。その様を見てイビルモンは戦慄いた。

「パテール・デ・アルーム!」

凍てつく空気を切り裂き、ダルクモンの剣舞が舞う。ダルクモンが身を捻り、一回点、二回転、と回るたび剣閃がアイスデビモンの放った氷柱ごと氷魔の体を切り裂き、瞬く間に細切れにしてしまう。消滅していく破片を一瞥もせずダルクモンは残る一体、ダゴモンがいる方向へ向き直った。しかし先ほどまでそこに気配を感じていたはずの巨大な軟体デジモンの姿は見当たらない。

「上か!」

見上げれば四肢を解いて巨大な触手の塊になったダゴモンが、傘のように体を広げ、自分達に覆いかぶさろうと落下してくる。その青黒いアンブレラの直径はあまりにも大きく、左右に逃げて回避するのは間に合わないかもしれない。

「ダルクモンさん!」

「ああ!行くぞ緋色!」

互いに顔を見合わせると緋色はロッドに炎を纏わせ、ダルクモンは剣を構える。そして迷うことなく、傘の中心へ上昇して突撃を行った。泥を踏みしめる足音を何倍も鈍く大きくしたような音が響いて傘の降下がとまり、中心部が膨れ上る。次の瞬間、傘は突き破られ、二人の天使が空中へ勢いよく飛び出した。千切れた触手の破片が地面に落ちていき、音を立てて消滅して行く。

「うぇぇぇ、塩辛が口の中に…」

「これで残るはイビルモンだけだ。何処にいる?」

口の中に入ったダゴモンの破片や体液をペッペと吐き出す緋色を尻目に、いつの間にか姿を消したイビルモンを探し、ダルクモンは辺りを見回す。すぐにその姿は目に止まった。道路を眼下に見下ろす位置にいる自分達と同じ高さに到達し、なおかつそれを追い越していく巨大な血走った眼球と目が合ってしまったのだ。

「な…!?」

「そ、そんな…」

気がつけば、見下ろすほどの高さの、ダークティラノモンを遥かに追い越す巨体へとイビルモンは巨大化していた。周りの建物を眼下に見下ろし、現実ならば40メートルはあろうかという大きさだ。

「何を驚いているんだ?お前さん方がさっきまでやってたことと同じだよ。ありえねぇことをやってくれたから俺もありえねぇことをしたくなったのさ!」

巨大で長い腕が振り下ろされ、イビルモンの“スクラッチクロウ”が二人に迫る。樹齢数千年の大木のような腕が振り下ろされるあまりの迫力と恐怖に圧倒され、爪先が眼前に迫るまで二人は回避行動を忘れてしまった。

「…!緋色っ!」

先に我に帰ったのはダルクモン。一瞬遅かった緋色の手を引き、全速力でイビルモンから離れようとするが回避しきしれず、イビルモンの爪が二人をかすった。イビルモン本人からすれば体毛の一本、いやそれにも満たないほんの小さな点での一瞬の接触。それだけで二人は弾丸のような勢いで道路へ叩きつけられた。衝撃のあまりアスファルトには放射状に亀裂が広がっていく。

「うう…なんてパワーだ…」

全身の骨が砕けただろうかと緋色は思ったが、鈍痛があるだけで何とか立ち上がることが出来た。しかし傍に倒れているダルクモンは腹部に大きな裂傷を負っており、傷口から鮮血の変わりに粒子が吹き出ている。

「ダルクモンさんっ!」

「大丈夫だ、心配するな…」

剣を支えにしてダルクモンが立ち上がろうとしていると、不意に辺りが暗くなった。見上げてみれば、視界を埋めるのは巨大なイビルモンの足の裏。ピッドモンはダルクモンを抱きかかえ、ピッドスピードで加速して逃げようとしたが既に遅かった。大股で振り下ろされた巨大な左足は、舞い上がる粉塵と共に更に広く広く広がる亀裂をアスファルトに残す。

「ヘッ、虫みてぇに潰れちまったか。これでもうこの精神は抵抗できねぇだろうよ。さて、楽しい楽しい悪夢を再開するとしますかね…」

イビルモンは勝ち誇ったように笑う。しかし、その表情はすぐに怪訝そうなものに変わる。左足の裏に、微かにむず痒いような感触を感じたのだ。まさか、と思いつつもイビルモンは足裏に力を込め、地面と擦りつけてその感触を消そうと試みる。しかし、むず痒い感触は消えることなく、足裏を擽り続けていた。躍起になって更に力を込め続けても消えるどころかだんだんと強くなり始め、やがてイビルモンに仰天の声を上げさせる。足裏が僅かに地面から浮き上がったのだ。

「う、嘘だろう!?」

イビルモンの足の裏を、ピッドモンが右手一本で支えていた。彼の左腕に抱きかかえられているダルクモンも、イビルモン動揺ぽかんと口を開けて言葉を失っている。ピッドモンは歯を剥き出しにして食いしばり、張り裂けんばかりの表情をしている。だが一時も力を緩めず、頭を垂れず足裏の向こうにあるイビルモンの顔を睨みつけているかのような様子であった。

「いくらなんでもそりゃあないだろうよ…おとなしく潰れろぉぉっ!」

「僕はもう…あのときみたいな思いはしたくないんだ…誰にも…させたくないんだぁぁぁ!」

激昂してイビルモンが足に全体重をかけ押しつぶそうとした瞬間、まるでその力が全て跳ね返ってきたかのように巨体が足元からひっくり返り宙を舞った。何が起こったのかもわからぬまま派手に道路に叩きつけられたイビルモンは、きしむ体をやっとの思いで起き上がらせてからようやく自体を認識する。巨人が立っていた。先ほどまで自分が立っていた場所に、白い巨人が立っている。ピッドモンが自身と同程度にまで、ビルを見下ろすほどにまで巨大化しているのだ。

「ふ、ふ、ふふふふふふふふふふふふふふっ!ざけんなぁぁぁぁぁぁぁっ!」

驚愕を通り越して逆上したイビルモンが、先手必勝とばかりに爪を振り上げて突進した。
一歩踏み出すごとに、大足がアスファルトを叩き砕き大地が波打つほどの揺れを起こす。その激震の最中、巨人と化したピッドモンは微動だにせず立っていた。

「死・ねっ!スクラッチク…」

爪先が触れるか否かの刹那、繰り出されたピッドモンの右ストレートがイビルモンの懐を捉えた。鳩尾に特大の拳を叩き込まれたイビルモンの体が綺麗にくの字に折れ曲がり、そのまま綺麗な放物線を描き、悲鳴も出せずに吹っ飛んでビル街の頭上を通り抜けて行く。着地を待たずに、ピッドモンは二枚の翼を広げた。翼長100メートルはあろうかという純白の翼に煌々とした炎がともり、街を夕焼けのように紅く照らす。

「ファイア…フェザーっ!」

叫びと共に翼に灯る炎が無数の矢となって宙を舞うイビルモンへ放たれる。幾千、幾万の炎が足並みをそろえて飛んでいく様は、紅蓮の大河が空に架かったようにも見え、その激流の終着点であるイビルモンの体を一瞬で火達磨へと仕立て上げた。一千メートルは離れたところへ落下したその巨体は爆散し煙をあげて燃え尽き、そして粒子となって跡形もなく消滅していく。

「ここは緋色の精神世界。この巨人の姿は緋色の負けないという意思の…守るという意思の具現、か。過去の記憶だろうと、心に漬け込む悪魔であろうと、強い意志があれば跳ね除けられる…簡単な理屈だ。実に理解しやすい。そう思わないか、緋色」

ピッドモンの首筋に寄りかかり、一部始終を眺めていたダルクモンが感慨深そうに言う。それと同時に精神世界の空が白み、その部分から朝日のようにまぶしい光が差し込む。イビルモンが倒れ、精神世界の呪縛は完全に解かれた。悪夢が、眠りが覚めようとしているのだ。






「やれやれ、まさかこんな形で撃退されるとは。物事とは予定通りにいかないものなのですね」

粒子化していくイビルモンの焼死体を眺めながら、タキシードを着た究極体デジモン、アクトモンは呟く。言葉の内容とは裏腹に、その声には残念や不服と言った感情は微塵も含まれていない。むしろ満足げなともとれる表情をしている。

「予定通りに行かないのは貴様の遊びが過ぎるからではないのか?さしあたって大きな障害はないとは言え、このペースでは“あの日”に間に合わなくなる」

彼の変わりに不満げな声を漏らしたのは、竜人型究極体デジモン、アビドラモン。彼女らのいる六角形の広間の中央に置かれているプラネタリウム装置を挟み、アクトモンを睨みつけている。

「ご心配なく。あの日には間に合わせて見せますよ。今回の作戦も目的は8割方達成しておりますので…」

そういってアクトモンは広間の片隅に置かれていたDVDレコーダーのような機械から、一枚のディスクを取り出し、満足げに眺めた。機械からは一本のコードが伸びており、その先端は先ほど消滅したイビルモンの頭に繋がっていた。この機械はイビルモンが覗いていた人間の悪夢を、映像として記録するための機械なのだ。

「貴様の趣味に走った作戦の所為でペースが遅くなっているのだろう?」

「これはこれは手厳しい…では、そろそろペースを上げていきましょうか」

そう言ってアクトモンはディスクの七色に光る鏡面を見つめ、楽しげに目を細める。まるで肉眼で直接ディスクの中の映像を見ているかのような様子だ。

「ただし、妥協はしませんがね。思いがけず素晴らしい拾い物を手に入れることが出来ましたので」

苛立ちとそれ以上に強い呆れを込めて、アビドラモンは軽くため息をついた。





「でも、それは言うほど簡単なことじゃないよ、ダルクモンさん」

件のレストランの前に座り込み、白んで見えなくなっていく街の風景を眺めながら緋色が呟くように言った。変身を解き、サイズも、姿も13歳の現在の姿に戻っている。傍らの地面に立てられた看板の上に腰掛けたダルクモンが軽く頷いた。

「それに、乗り越えたと思ってもまたすぐ追いかけてくる過去だって…」

言って緋色はチラリ、と視線を店内のほうへ向ける。人の姿はまったくないが、荒らされた店内はそのままであり、美登里が倒れた場所には血の跡が鮮明に残っていた。それを目に止めると、またすぐに緋色は顔を背けて俯いてしまう。

「緋色、だから人は…デジモンも、お互いに支えあうんじゃないのか?苦しい時、辛いときに励まして乗り越える手助けをする為に。緋色もそうやって少しずつ乗り越えてきたんじゃないのか?」

そう言われ、何かに気づいたように緋色は顔を上げ、ダルクモンを見上げる。微笑みを返してダルクモンは看板から降りて緋色の横に座った。

「緋色。私はな、人間を守りたくて戦っていたわけじゃないんだ。父さんがそれを望んでいたから戦っていた。人間なんて気にも留めていなかったんだ、以前は」

「え?」

意外な告白を聞いて緋色は思わず目を丸くする。その表情がなんだかおかしくて、ダルクモンは普段の彼女らしくない、悪戯っぽい笑みを漏らす。

「だから、最初は友達や危機に晒される人達を必死で守ろうとする緋色と一緒にやっていけるのか、不安でしょうがなかった。だけどその不安を消してくれたのは、人間を、誰かを守りたいと本当に思えるようにしてくれたのは…緋色、君とその周りの人々なんだ」

心からの想いのこもった、暖かで柔らかな表情。思えば、丁寧だがいつも感情を抑えて話し、そうでないときは激昂しているときか叱咤激励するときであるダルクモンのこんな表情を見るのは、緋色は初めてであった。ダルクモン自身も、このように自分に胸の内を吐露することも初めてである。

「今日ほど誰かを守りたいと思った日はなかった。そして、初めて思った。君と肉体を共有できて良かったと。必ず、守ってみせる。この世界も、人間達も、そして君も。至らぬところも多々あるだろうが、これからもよろしく頼めるか、緋色」

そう言ってダルクモンは緋色に手を差し出す。緋色は戸惑い、なんと言えばいいのかよく分からずに「あの、えと」と口ごもる。しかし悪い気分ではなく、胸の奥が暖かく、擽ったくも心地よい気分でいる自分に気づき照れながらその手を握り返した。

「僕も、ダルクモンさんに出会えてよかった。僕の方こそ頼りないかもしれないけど…よろしくお願いします、ダルクモンさん」

「ああ!」

誰にも見せたことのない満面の笑顔を見せながら、ダルクモンは緋色の手を引いて立ち上がった。少し顔を赤らめながら、緋色もそれに続く。レストランを後にし、まぶしい光で白んだ道の中へと、二人は歩き出した。











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