意識が眠りから覚醒すると、緋色はまず枕元に置いてあるデジタル時計に目を移した。AM5:55。ある特撮ヒーローの名前を連想させたが、取り立てておかしな数字ではない。早くも遅くもない時刻だ、緋色にとっては。今頃小学生達は眠い目を擦り、不平不満を口にしながら近所の公園等に向かっている時間だろうか?去年までは緋色もそうして毎朝早朝にラジオ体操をしていたが、当時から別段苦には思っていなかった。午前6時前後に起きることは、数年来の習慣として緋色の体に染み付いていたからだ。そんな事を考えながら緋色はまだ半開きの眼で自室を見回す。 教科書が収められ、寝る前に少しだけ手をつけた夏休みの宿題が置かれた机。漫画本が大部分を閉める本棚。ビデオ付きテレビに繋がれたゲーム機。それらの上にポーズをつけて並べられた、ヒーロー物のアクションフィギュアやロボットのプラモデル。小さい頃使っていたダンボールの玩具箱。部屋の様子は別段、変わってはいない。いつもと変わらない朝が今日も来たのだ。眠りから覚めて意識が覚醒してくると、五感も意識に追いすがるようにゆっくりと覚醒していく。するとさまざまな感覚が肉体を襲ってくるのだが―――人によってはそれは気だるさであったり、あるいは頭痛や手足の痺れであったりするが、特に体調を崩していなかった緋色を襲った感覚は単なる尿意だけであった。 「…はぁ」 布団を被り直しながら、緋色は憂鬱そうにため息を付く。目覚めと共に尿意を催すのは別段おかしな事ではない。だが今の緋色にとって、朝に限らず用足しに行くこと自体がひどく憂鬱な行為であったのだ。数日前から、緋色の中にとある女性の意識が宿っていた。彼女は特に用事もなしに緋色に「話しかける」事はしない。眠ったりして緋色が意識を失っている間の肉体を動かすことも出来たが、緊急事態でもなければそれをすることもしない。宿主である緋色にひどく気を使っている事が子供の緋色にもよく分かった。申し訳なく思いつつも彼女の心遣いがありがたかった緋色だが、どうしても避けられない問題があった。彼女と緋色の五感は共有されている。そう、視覚も聴覚も。それは二十四時間見張られているという事と同意義であった。不良でも、ましてや犯罪者でもない健全な中学一年生の緋色は日常的に後ろめたい行為を行っている分けではない。かと言って用足しや入浴といった行為を含んだ24時間を他人に見張られて平気な人間など滅多にいないだろう。それが多感な10代で、相手が異性だというのならなおさらだ。 「う〜…」 そのような経緯で緋色はトイレに行く事を躊躇っていたが、我慢したからと言って尿意がなくなろう筈もない。内股をぴっちりと閉じ、芋虫の用に毛布の中で身を捩じらせて緋色は尿意に懸命に耐えた。 “…あまり私の事を気にするな。君は普段通りの生活を送っていてくれていいんだ” 見かねた「彼女」の声が緋色の頭の中に囁いたが、それでも緋色はベッドから出るのを躊躇っていた。 「気にするな、って言われても…!」 額に汗を滲ませながら緋色は苦し紛れに呟いた。気の持ち様がなんであろうが、彼女に用を足している所を見られているという事は変わらないのだ。異性の目を完全に意識せずにいられるほど、彼は達観した精神を持ち合わせてはいない。時間と共に増していく尿意に緋色が必死に耐えていると、先ほどの一言からだいぶ間をおいて彼女の声が脳裏に響いた。 “頼むっ!私だって辛いんだ!!” 普段の常に淡々とした口調の彼女からは想像もつかない―――例えるならば、トイレの個室のドアを叩いている人が発するような声を聞いて緋色は一瞬だけ尿意を忘れた。そして再び襲ってきた尿意を感じながら緋色は思う。よくよく考えれば五感を共有しているのだから、この股間の張り詰めた、せっつかされるような苦痛を彼女も味わっているのだ。それに自分が他人にトイレや入浴を見られたくないと思うのと同様に、彼女だって他人のそれに付き合わされたくないだろう。むしろ自由を奪われた分、肉体を共有する事に対して自分よりもストレスを感じているかもしれない。自分の事ばかりでそれを失念していた事を恥じながら緋色はベッドから下りた。トイレを我慢するのはよそう。目を閉じてさっさと済ますように心がければいい。それと恥ずかしさ故に入浴をカラスの行水で済ますのも止めて、体を今までよりも念入りに洗おう。女の人なんだから、体を綺麗にしておいたほうが喜ばれるはずだ。 そんな事を思いながら、緋色は部屋を出てトイレへ向かった。 Scarlet Hero “五十鈴唯菜の危機” 水棲獣人型デジモン ダゴモン 登場 グツグツと沸き立つ鍋の中から立ち込める匂いが鼻腔をくすぐり、食欲を刺激し唾液の分泌を促す。その鍋の中身を、沸き立つ味噌汁の表面をおたまが掠め、スプーン一杯程度の量を小皿に運ぶ。それをすすって――――緋色の顔が綻んだ。味付けは今日も上手く行き、薄すぎずしょっぱすぎない、程よい按配だ。 「おはよう、緋色」 緋色がコンロの火を消すと同時に、寝ぼけた挨拶が緋色の耳に飛び込んできた。振り向くとキッチンの入り口で父親の葵が大きな欠伸をしている。 「お父さん、おはよう!」 父の眠気を吹き飛ばそうと緋色は思い切り声を張り上げて挨拶をすると、今しがた出来たばかりの味噌汁と、タイマー付き炊飯器という文明の利器のおかげで既に出来上がっていた白いご飯をテーブルに出す。緋色の大声と食欲をくすぐる味噌汁の香りで、葵の眠気は直ぐに吹き飛んでしまった。 「オムレツ、今作るからちょっと待ってね」 そう言って緋色はテーブルに背を向けると、手際よく複数の卵を割ってボウルの中でかき混ぜ、味噌汁を作る片手間にあらかじめ熱しておいたフライパンに溶き卵を落とす。ずいぶん手際よくなったものだ。昔は妻が卵を割るのを手伝おうとして服をべちゃべちゃにして泣いていたのに。そんなことを考えながら葵がぼんやりとしている間に、オムレツが焼きあがった。 「お父さん、今日のオムレツも上手く焼けたよ!」 エプロンをつけ―――何故か最近になって三角巾を被るようになった緋色の屈託の無い笑顔を見て、葵は胸をチクリと痛ませた。数年前に死んだ妻の代わりを不満一つ言わずに務める息子の姿に。 朝食の後会社に出勤する父を見送り、後片付けを終えると、夏休みは特に外出する予定がなければリビングでジュースを飲みながらTVを付けて一息入れるのが緋色の日課だった。クラスメイトからは主婦みたいだと笑われた事を思い出しながらソファーに腰を下ろす。土日ならば緋色のお気に入りの特撮番組が流れている時間帯だが、生憎この日は平日なのでどのチャンネルも朝のニュースしか流れていない。緋色は全国の大多数の主婦と同じように、なんとなくワイドショーを眺めているという選択を選んだ。テレビには緋色の興味を引かないやれ民主党だの、やれ靖国参拝だのといったニュースばかりが流れていたが、不意に緋色の目をひきつけて離さない衝撃的な映像が流れてきた。 高熱でとろけた鉄柱。自動車の残骸が折り重なり、クレーターが幾つもできている駐車場。そして崩れ、焼け落ちて原型をとどめていない建物。それだけならば緋色はそこがどこか気づかなかっただろう。だが廃墟の向こうに広がっている平穏無事な見覚えのある町並みと、画面に一杯に広がった物々しい字で書かれた「白昼夢?謎の怪獣事件の真相に迫る!!」というテロップがなければの話だが。テレビに映っている映像は、先日とダークティラモンと戦ったカラオケボックスだった。 「このように、現場には足跡のようにも見えるクレーターが出来ており…」 デジタルモンスター。異界デジタルワールドに住む強大な戦闘能力を持った生物。それが暴れまわる様はカラオケボックスの客達はもちろん、大通りを挟んだ向かいにあるショッピングセンターの客達にも目撃されていた。大量の目撃者を通してデジモンの存在は世界中の人々に知れ渡るのだろうと緋色は考えていたが、ダークティラノモンと戦った翌日、緋色は意外な事実を知ることになる。目撃者達が撮影したカメラ、ビデオの中にはデジモンの姿が一切映っていなかったのだ。破壊され炎上し煙を上げているだけカラオケボックスの映像を見て警察もマスコミもただただ首をひねるばかりであった。ダークティラノモンの姿形こそなくても、その存在を裏付ける証拠はいくらでもある。駐車場に刻まれた深い足跡や、勝手に足跡の形に地面が沈んで何もないところから炎が飛び出て建物を燃やすというあまりにも不自然な映像が記録されたビデオ、そして100人以上の目撃者。しかしこれだけの証拠が残っているにもかかわらず、警察やマスコミの人間の多くが『怪獣』の存在を認めはしなかった。『怪獣』の存在は多くの人々にとって、あまりにも突飛過ぎたのだ。以来テレビでは怪獣騒ぎの真偽を巡って激論したり、現場や目撃者の撮ったビデオ映像を検証する番組が連日放映されている。それらの多くは事の真相を知っている緋色にとってはあまりにも稚拙で、不愉快さを覚えることも少なくなかった。 「まぁ、分かりやすく言えば最初は誰かが混乱と恐怖のあまり幻覚を見てそんな事を言ってしまったわけですよ。そして他の誰かが注目を集めようと思って同じ証言をして、また誰かがそれに便乗して…実に卑しい話ですな。乗せられて騒ぐから『怪獣を見た』なんて輩が後を絶たないんですよ」 したり顔で話すコメンテーターの言葉に腹を立て、緋色は怒りに任せて適当にチャンネルを変えた。 「なんであんなこと言えるのかな。実際に被害にあった人達がたくさんいるのに」 “仕方のないことだ。実際にあの場に居合わせなければそう思うようになるのもな” 憤る緋色の頭の中に、「彼女」、ダルクモンの声が響いた。彼女が自分からこうして緋色に話しかける事は滅多になく、緋色が自分から話しかけたときでもあまり長く会話を続けようとはしない。彼女曰く、「宿主である緋色の生活への干渉は極力避けたいから」だそうだ。 「そういえばさ、ダルクモンさん達は何で他のみんなにデジモンの事を話さないの?」 みんな、とは緋色の他の人間達の事だ。ダルクモン達「シールダーズ」が、何者かが悪意を持ってデジモンをこの世界に送り込んでいる事を警察や政府に伝え、協力して人々を守ることは出来ないのかと緋色は言いたいのだろう。 “…まず、我々の事を信用してもらうのに時間がかかる。相手も我々もデジモンなのだからな。それに時間をかけて対応が遅れ、犠牲が出るくらいならばシールダーズだけで戦おうというのが総司令の考えだ。それにデジモンやデジタルワールドの存在がもし公になれば人間の世界の情勢は大きく変わってしまうだろう。それこそ、今の「怪獣事件」など比較にならないほどの混乱を招く可能性がある” その言葉を聞いて、緋色は改めてダルクモン達、「シールダーズ」に対して改めて畏敬の念を覚えた。人間達を守るためにジャスティモンが結成した組織・シールダーズのデジモン達は、その人間達からの見返りもなしに戦い続けている。別の世界にすむ、別の種族の為に。緋色はシールダーズのメンバー全員を尊敬していたが、その中でも自らの肉体を投げ出してまで自分の命を救ってくれたダルクモンを特に強く尊敬していた。それこそ何度彼女に礼を言っても足りないくらいだ。実際に感謝の意を述べたことは一度や二度ではないのだが、その度に彼女は「私のミスで君の命が絶たれようとした。だから何があろうとも君の命を救うことは我々「シールダーズ」として当然の事だ」と言ってその言葉を受け取ることはなかったが。 「そういえば…ダルクモンさんは何でシールダーズに入って人間を守るために戦おうと思ったの?」 何気なく頭に浮かんだ疑問を緋色がそのまま口にすると、途端にダルクモンが黙ってしまった。ダルクモンは普段は自分から緋色に話しかける事はないものの、緋色がデジモンの事などを質問したときは言葉を濁すことなく理路整然と答えていた。その為緋色も思わず困惑して言葉を詰まらせる。そこへ玄関においてある電話が緋色達に助け舟を出した。電話がかかってきたのだ。この気まずい沈黙を打ち払うためにすぐさま緋色は玄関へかけていって受話器を手に取る。 「はい、泉戸ですが…」 「あ、泉戸君?同じクラスの五十鈴なんだけど…」 電話口から聞こえる、幼さを残しながらも高く透き通った少女の声を耳にして、先ほどまでの気まずい気持ちが全てどこかに吹き飛んでしまった。緋色のクラスメイト、五十鈴唯菜(いすず ゆいな)の声を聞いて。 「連絡網が回っているの。宿題のプリントの事なんだけど…」 緋色が決して口にしない、しかし密かに自慢にしている事が一つある。それは男女混合名簿を採用している緋色の学校では、連絡網を回すときクラスのマドンナである五十鈴唯菜から電話をもらえるという事だった。小学校の頃唯菜と同じクラスになったのは一回だけだったが、その頃から彼女は同級生達と比べて頭一つ抜けて可愛く、他のクラスや学年からも人気が高かったと緋色は記憶している。中学に入学し、同じクラスになってからも益々磨きがかかり、クラス中、いや学年中からの羨望を一身に受けるちょっとしたマドンナだ。友人から時々子供っぽいと言われ、実際まだ異性よりもヒーロー番組や男友達と遊ぶ事に興味を傾けている緋色も、唯菜には他の女子生徒へのそれとは少し違った感情を抱いていた。 「…それで、ページが増えちゃったわけよ。やーよねー。…泉戸くん、聞いてるのぉ?」 受話器をとった時の一言以来何もしゃべっていない緋色に、唯菜が間延びした声で問う。聞いてないわけではない。ちょっと浮かれていたものの、緋色は聞き逃したりはしていない。夏休みの宿題であるワークブックのページを指定する表記にミスがあったことも、唯菜のよく通るハキハキした声も。 「あ、うん、ちゃんと聞いているよ」 「そう?ならいいわ。それじゃあね」 用件を伝えた事を確認した唯菜の台詞は、明らかにこの短い至福の終わりを意味していた。緋色はつい「うん、じゃあね」と返しそうになった口をあわてて押さえ、少しでも会話を長引かせられないかと思案する。冷静に勤めようと必死に心を落ち着かせていると、受話器から喧騒とガタン、ゴトンという特徴的な音が聞こえてきた。 「い、五十鈴さん、何か音が聞こえるんだけど…ひょっとして電車の中?」 どうでもいいような質問だったが、会話を少しでも長引かせる為に緋色はそれを口にする。 「んー、当たり。実は連絡網回ってきたの昨日お風呂入る直前だったの。それでお風呂上がってから泉戸くんに電話しようと思ったんだけど、うっかり忘れちゃって…。さっき思い出して、今地下鉄の中から携帯でかけているの」 緋色は思わず拳を握り締める。彼が積極的に女子をからかったりするタイプの男子でなかったことが幸いしたようだ。それほど親しいわけでもなかったが、少なくとも緋色は彼女に悪い印象はもたれてないらしい。一瞬、「電車の中で携帯電話をかけるのはマナー違反では?」と思ったが、もう少し彼女と話していたかったので緋色はその考えを頭の隅に追いやった。 「そうなんだ。それで、何処へ…」 そこまで言いかけて、緋色は口を止めた。お世辞にも耳に優しいとはいえない種類の甲高い電子音が耳に届いたからだ。それは戦いの始まりを告げる銅鑼の音。デジモンがこの世界のどこかにリアライズしたことを示す、D・バックラーのアラーム。マナーに反することを考えていたから罰が当たったか、と思いながら緋色は反射的にポケットに入っていたそれに手を伸ばすが、耳に届いた新たな「警笛」がそれを止めさせた。 「きゃああああああっ!?」 「五十鈴さんっ!?」 受話器から聞こえるのは今まで一度も聞いたことの無いような、そして出来ることなら二度と聞きたくない種の唯菜の声。そして鼓膜に強く響くその悲鳴を塗りつぶす、寒気が走るような甲高い急ブレーキ音。他の乗客の悲鳴も聞こえる。 「いやっ!?やめてっ!気持ち悪いっ!!」 悲鳴の他にガラスの割れる音などの破壊音が混じり、唯菜の悲鳴がパニックに陥った人間のそれへと変わっていく。急ブレーキ音が止むよりも先に通話が途切れ、ツーツーというどこか耳障りな特有の音に変わった。一瞬、緋色は固まっていたが直ぐに我に返る。そして朝食を作ったときの格好のまま外に飛び出そうとしたところをダルクモンに制された。 “落ち着け!デジモンが出現したポイントも確かめずに何処へ行く気だ!” 言われて思わず足を止め、ポケットの中のD・バックラーの画面を確認する。場所は…やはり地下鉄のトンネルの中だ。遠い。この路線と繋がっている駅まで自転車を飛ばしても30分はかかる。その上そこから地下鉄の線路にそってデジモンが出現した地点まで行かなければならないのだ。時間がかかり過ぎる。緋色が到着するまで襲われた人々が無事でいられる保障など、何処にもない。 “厄介な位置にいるな。変身して飛んでいっても、リアライズリミットを全て使い切って到着するかどうかだ” ダルクモンは冷静に状況を分析し、緋色を落ち着けようとした。しかしその事実は逆に緋色の危機感を煽ってしまい、堪らなくなって緋色は玄関の外へ飛び出す。そして緋色のつま先から光の帯が発生し、巻きつくようにして体を覆う。ダルクモンが先ほど無意味だといったのにもかかわらず、変身しようとしているのだ。 “落ち着けと言っている!敵の目の前で変身が解けて犬死したいのか!?” 強い口調でダルクモンが叱ると、光の帯は消えてしまう。そして緋色はただその場に立ち尽くした。握った拳が振るえ、うつむいた顔を伝って悔し涙が一滴落ちる。ダルクモンは、既に失われたはずの自分の胸が締め付けられるような感覚を感じた。 「苦しいだろうが、今はゲートが地下鉄の中に繋がるのを待ってくれ」 D・バックラーにデジタルワールドから通信が入り、シールダーズの総司令官、ジャスティモンの声が緋色の耳に届いた。厳格な、堂々とした声色だったが彼も緋色同様の感情を押し殺し、周りに自分の焦燥が伝わらぬよう勤めていた。 「地下鉄の中へゲートの出口を開き、まずはウィッチモンを送り込む。その後で君のところへゲートを繋ぎ、一旦こちらに来てもらってからゲートで君を地下鉄の中へ送る。今はそれが一番早く現場へ駆けつける方法だ」 確かにジャスティモンの行った事は筋が通っている。直接地下鉄に向かうよりもゲートを使いデジタルワールドを経由してしまえば緋色が移動する距離はほぼ零で済む。シールダーズ本部「イージスゲート」にあるゲートシステムは一度に一つしかゲートを開けないため、本部に常駐しているウィッチモンを先に送るということも納得がいった。しかし、このプランには一つ問題点があった。 「司令…ゲートを開くのにかかる時間は?」 「…三回を合わせて、リアルワールドの時間で10分近くかかるだろう」 不完全で安定していないゲートシステムはまるで調子の悪いパソコンのように、起動し目的地とゲートをつなぐのにもどかしくなるほどの時間を要した。それどころか、ゲートを発生させる場所に多少の誤差が生まれるすら日常茶飯事であった。本部にはウィッチモンの他にトータモンもいるのに彼がこの状況で出撃できない理由は狭いトンネル内で誤差が生じてリアライズした場合、乗客を踏み潰したりトンネルを崩す可能性があるからだろう。不安定の原因はゲートシステムを構成する四つのオーパーツの一つ、「リアライザー」が盗まれているからであり、「敵」はそれを使ってデジモンをこの世界に送り込んでくる。この理不尽な因果関係に気づき、緋色は未だ正体も目的も分からない「敵」に対して強い怒りを燃やした。 何か、何か方法は無いのか。ただ待っている事に耐えられず、緋色は踵を返して家に舞い戻った。 トンネルの中、電車の中に生臭い磯の匂いが充満している。それをたらふく肺の中に吸い込んでしまい、五十鈴唯菜は朝食べたトーストをもどしそうになった。濡れて体に張り付いた衣服も不快だ。 「もう、なんなのよこれぇ…」 泣きそうな声で、いや実際目じりに涙を溜めながら呟く。「これ」とは自身の体に巻きついている、巨大なタコかイカのような生物のものと思われる触手だ。青く濁った色をしたそれは、大人の腕かそれ以上に太く、海水か、あるいは粘液のようなもので濡れている。言うまでもなく充満する磯の香りの発生源だ。地下鉄の進行方向に突然出現した触手の塊(少なくとも唯菜にはそうとしか見えなかった)はクッションのように車両を正面から受け止め、先頭車両が触手の中に埋まると窓を割って触手の先端を電車の中に侵入させ、中にいた乗客たちを次々と絡めとっていった。触手の塊に電車が突っ込んだとき塊の内部に見えた巨大な血走った双眸と目が合ってしまい、竦んでいた唯菜はあっという間に触手に捕らえられてしまったのだ。半ばパニック状態に陥った思考の片隅で、「このお気に入りのブラウスもスカートも、もう着れないだろうな」など唯菜は場違いな事を考える。そうやってあまりにも突然に現れた命の危機から無意識の内に逃避しようと考えようとしているのだ。しかし後ろの車両から聞こえる破壊音や乗客の悲鳴が警鐘となって自分が置かれている状況を認識させつづけ、それでも分からないか、と言わんばかりに首筋を触手が撫でた。首筋を這い回るおぞましい感触に、彼女は絶叫した。 「助けて!誰か助けてっ!!」 唯菜が狂乱状態になりながら叫んだその瞬間、異口同音に助けを求める声が、悲鳴が聞こえる場には場違いであろう音楽を唯菜は耳にする。それは彼女には馴染みのある物…触手に襲われたときに落とした、自分の携帯の着メロだった。流行の歌謡曲のイントロが、触手で埋め尽くされた車内に響いている。もっとも、触手の中に埋もれているであろうそれを聞き取れたのは、音の発信源に近かった彼女だけであったが。触手に襲われる直前まで電話していた事を思い出し、彼女は神に祈った。 「神様、もう電車の中で電話はしませんから、どうか助けてください」と。 そして、祈りは通じた。次の瞬間、まばゆい閃光と共に車内を満たしていた触手の一部が吹き飛んだ。唯否は知る由も無かったが、そこは彼女の携帯が落ちていた場所であった。光はそのまま車両の天井に穴を開けて、外へ飛び出す。目もくらむほどの光が晴れたとき、唯菜は車両の外に見えるものの姿を見て言葉を失った。それは赤い服に耳を包み、箒に乗って宙に浮いている典型的な魔女の格好をした女性。それの隣にもう一人―――――天使が、そこにいた。
「バルルーナゲイルッ!」 魔女が自らの乗っていた箒を振るい、呪文のようなものを唱えると、目を開けていられないほどの強風が車内に吹き付ける。風が止み、目を開けると自分に巻きついていた触手を始めとして、車内を満たしていた触手の何本かが切断されていた。唯菜が我に返る暇もなく、車内に二人が下りてきて、唯菜は触手の中から引っ張り出され、天使に抱きかかえられた。 「良かった、無事で…」 触手から滴る液体や切断されたときに吹き出た体液にまみれていた唯菜の姿を見て、天使は一瞬顔を青ざめさせたが、大怪我はしていないと分かるとそれが心底安堵したような表情に変わる。鉄の仮面を被っていて口元しか露出していなかったが、それでも分かりやすいほど表情を変化させていた。 「ひ…ピッドモン、後ろの車両の人達が逃げるのを助けてあげて!この車両は私が!」 触手の中から他の乗客を救助しながら、魔女が天使に支持をだす。天使はそれに頷くと唯菜を抱きかかえたまま、翼を羽ばたかせ車両の外へ飛び出した。触手の怪物に先頭車両が飲み込まれてから、5分も経っていなかった。 ダゴモン。地下鉄のトンネル内にリアライズしたデジモンの事を、ダルクモン達はそう呼んでいた。トンネルの中を遮る、淀んだ水のような色のこの触手の塊がダゴモンなのだろう。名前のとおり蛸や烏賊などの海洋生物を連想させる姿だな、と緋色は思った。ダゴモンは本体が埋もれるほどの数の触手でトンネルを遮って壁を作り、そこへ列車が突っ込んできた、と言うのが5分ほど前の状況だ。頭半分ほど埋まった先頭車両はすでに触手で覆い尽くされ、二両目も覆いつくさんと伸ばした触手が車両から降りて逃げようとしている人々を襲っているのが現在の状況である。 「ファイアフェザーッ!」 緋色は車両の屋根にそって飛びながら、二枚の翼から炎の矢を放つ。真っ赤な炎に表面を焼かれ、今まさに人々を襲わんとしていた触手がのた打ち回った。 「早く逃げてっ!」 突然現れた天使、ピッドモンの姿に驚いて足を止めていた人々もいたが、それらもすぐにまた走り出す。あとは自分の腕の中のクラスメイト…唯菜だけだ。緋色は一気に触手から離れて、3両目の車両のそばに彼女を下ろした。 「貴方も早く!」 『五十鈴さん』と呼びそうになるのを堪えながら、緋色は唯菜に逃げることを促す。それまで呆けたようにピッドモンの姿を見つめていた唯菜は一刻の間を置いて、頭を下げた。 「た、助けてくれてありがとうございます!」 走り出して行く唯菜の背中を見送ると、緋色は安堵したように呟いた。 「本当に良かった、間に合って…」 “彼女の携帯電話が壊れていなかったのが幸いしたな” あの時、家に舞い戻った緋色が目にした物、それは電話のディスプレイに表示されている直前にかかってきた相手の電話番号…つまり、唯菜の携帯の電話番号であった。デジタルワールドはネットワークの発展によって生まれた世界。ならばインターネットにアクセスできる携帯電話とも密接な関係があるのではないのか?緋色が直感的に思いついたこの仮設は、幸いにも的を得ていた。これを皆に話すと、オペレーターのサーチモンは「D・バックラーと携帯電話をネットワークでつなげれば、携帯電話をゲートの出口として設定させることが出来るかもしれない」と口にした。以前ジャスティモンから聞いた話では、偶発的にゲートが開く際、パソコンや携帯電話がその出入り口になることが多いという。D・バックラーはゲートシステムを補助するソフトが入っており、それによってこの端末は偶発的にゲートが開いたときのパソコンや携帯電話のように「出入り口」の役目を果たす。このシステムを唯菜の携帯にダウンロードするというのが、サーチモンの思いついた作戦であった。 「成功するかどうかは五分五分ってところだけどね。そもそも携帯電話とかいうチャチな機械が壊れていたら意味が無いし」 サーチモンはそう言ってこの案を却下したがっていたが、一分一秒でも早く唯菜のところへ向かいたがっていた緋色の必死の嘆願を受けて、ジャスティモンはこの案を実行に移すようサーチモンに命令した。まず、サーチモンが緋色の家にリアライズし、D・バックラーと緋色の携帯を分解してコードで繋げた。リアルワールドへの干渉を極力避けるという意向の元、D・バックラーには人間の作った端末と通信する機能がなく、外部機器と接続するためのコネクタも互換性の無い独自の規格になっているからだ。サーチモンは一分もかけずその作業を終え、「あんまり早くて驚いた?言ったでしょ、人間の作る機械はチャチだって。それに一度直したことがあるしね」と言って自分が一分前に出てきたばかりのゲートに戻って行き、緋色は自分の携帯電話に、念願の―――このような状況で手に入れたのではなければ喜んでいたのであろう、五十鈴唯菜の携帯電話の番号を打ち込む。アクセスは成功。ゲートの「出入り口」となる機能を付加された携帯電話はイージスゲートとゲートで繋がれ―――現在に至る。 「大丈夫?早く逃げてね、坊や」 蠢く触手を風の刃で薙ぎ払いながら、ウィッチモンは小学校低学年くらいと思われる子供を車外に降ろす。先頭車両にいた乗客はこの子で最後だ。先ほどまで腰を抜かしていたのが嘘のように、わき目も振らずに一目散に駆け出して行く。意外に逞しいものね、というのがウィッチモンの感想だった。 「私も早く逃げなきゃ」 先頭車両の乗客達を全員逃がした今、敵の手の中も同然であるこの場に留まる理由は無い。しかしその前に回収しておかねばならないものが一つあった。唯菜の携帯電話だ。リアライズしていられる時間に限りがあるウィッチモン達にとって、未だゲートの出入り口となっているそれが破壊されることは、生命線が絶たれることを意味している。ウィッチモンが地面に落ちていた携帯を拾い上げると、頭上から何か硬い物をへし折るような大きな破壊音が響いた。見上げる必要も無く分かる。先頭車両に絡みついた触手が、物凄い力でそれを握り潰そうとしているのだ、中にいるウィッチモンごと。 「この…バルルーナゲイル!」 呪文を唱え、無数の風の刃を放つ。内側から車両を貫き、それに絡み付いていた太い触手に刃が突き刺さる。だが刃はそのまま触手を貫くことなくそこで止まり、空しく大気に解けた。乗客を捕らえていた触手の先端は細く、切り裂くことも出来たが、それを人でいう指先とするのなら今攻撃した部分はいわば「腕」だ。切り裂くにしても指ほど容易いはずが無い。ウィッチモンの額に、冷たい汗が流れた。 「ウィッチモンさんっ!」 ウィッチモンを救おうと、外側から触手を焼き掃おうと緋色が飛び、それを遮るように似両目の車両に絡みついていた触手が何本か持ち上がる。緋色がそれを打ち掃わんとロッドを振り上げると、持ち上がった触手達が互いに身を絡ませ、一本の太い触手になった。 「このぉっ!!」 初めて見せる動きに緋色は一瞬戸惑うが、構わずにロッドを振りぬく。途端に、腕に強い痺れが返ってくる。硬い。まるで太い大木を相手にしているような感覚だった。そして今度はこちらの番とばかりに極太の触手がうねり、緋色を殴り飛ばす。 「うあああっ!?」 体がバラバラになるのかと思うほどの衝撃が全身に走り、視界がグルグルと回る。背中に衝撃が走り一瞬遅れてコンクリートの壁が欠けて崩れる音が鼓膜に届く。壁に叩きつけられたようだ。朦朧とする意識の中で世界が上下に揺れ、どこか遠くからウィッチモンの悲鳴と、ダルクモンの「逃げろ」と言う声が聞こえる。ぼやけた視界の隅で、先ほど自分を殴り飛ばした触手がその身を大きくしならせ、さらに追い討ちをかけようとしている。逃げなきゃ。頭ではそう感じていても、痛みで体が動かなかった。 「グラン…ダッシュッ!!」 突然、トンネル内が揺れた。触手の壁が倒壊し、緋色に追い討ちをかけようとしてた太い触手も衝撃を受けて崩れる。ウィッチモンのいる先頭車両を握りつぶそうとしていた触手も衝撃で動きを止めた。 「アクエリープレッシャー!」 触手の力が緩んだ隙を狙い、ウィッチモンは箒から放水銃のように水流を放つ。強力な水圧が触手の隙間を割り広げ、その隙間に飛び込んでウィッチモンは脱出する。ようやくダメージから回復した緋色も壁にめり込んだ体を引き抜いた。 「ウィッチモン!小僧!大丈夫か!?」 崩れて半分ほどの高さになった触手の山の向こうに、トンネルの幅のほとんどを占拠するほどの大きさの巨大な亀の姿が見えた。同じシールダーズの仲間の、トータモンだ。見ての通りの巨体なので下手にリアライズさせると、乗客を踏み潰したりトンネルを崩したりする可能性がある。そのためピッドモンとウィッチモンの2人とは同時にリアライズさせず、後からダゴモンの背後にリアライズさせることになっていたのだ。 「グッドタイミングよ、トータモン」 そう言ってウインクすると、ウィッチモンは再び表情を引き締める。トータモンの回転体当たり『グランダッシュ』を受けて動きを止めていた触手達が、いっせいに蠢きだしたのだ。崩れた触手の壁の中から、蛸を連想させる形状の、ダゴモンの頭らしき部分が覗いている。蛸にありえるはずのない牙のならんだ口からトンネル内に充満している物の何倍も生臭い匂いを垂れ流し、赤く血走った瞳で緋色達を睨んでいた。 「…ピッドモン、こいつは『完全体』よ。ピピスモンやアイスデビモン達とは基礎能力からして段違いだから気をつけて」 完全体。その単語を聞いて緋色の体が強張った。デジモンは成長の過程で変体する昆虫等の生き物のように姿を大きく変え、その現象は『進化』と呼ばれている。進化の段階は6段階。二段階の幼年期をへて成長期、成熟期、完全体、究極体へと進化していく。トータモン、ウィッチモンは『成熟期』であり、緋色が変身しているピッドモンもまた同じ「成熟期」だった。いままで仲間の手を借りつつも緋色が倒してきたデジモンは全て「成熟期」だったと緋色は記憶している。初めての「格上」の相手との戦いを前にした緋色が普段以上に緊張するのも、無理らしからぬことだった。 「ダイジョーブよ、危なくなったら逃げちゃえばいいんだし」 “ウィッチモンの言うとおりだ。引く事もまた勇気、撤退は決して恥じるべきことではない” 緋色の緊張を察したのか、ウィッチモンが唯菜の携帯をチラつかせながら笑いかける。それを受けてダルクモンが声をかけたが、緋色の体の強張りはさほど解れはしなかった。緋色の身を案じての言葉なのだろうが、ダゴモンを野放しにしていればまたどこかの誰が襲われる。それが自分の見知った人物でないという保証などどこにもないという事実を、緋色は今日、実例付きで突きつけられて再認識したのだ。唯菜の無事な姿を確認するまでのあの恐怖感を思えば、「危なくなったら自分だけ逃げる」という選択肢などとても選べない。 ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!! ダゴモンが不意に上げた低く長い唸り声が、第2ラウンドのゴングとなった。ダゴモンは頭部の周りの触手を、一斉に前後に、トータモン、緋色とウィッチモンへ向かって伸ばす。 「うおっ!?」 無数の触手がトータモンの体や四肢に絡みつき、その巨体が触手の固まりに向かって引きずられる。トータモンが蹄を地面に打ちつけ、全力で踏ん張ってトータモンはその場に踏みとどまったが、触手を引きちぎって振り払うことは叶わなかった。両者を結ぶ触手は、僅かなたるみもなくピンと張られている。 「そんなっ!?トータモンさんのパワーと互角だなんてっ!」 緋色は自分に向かってきた触手を打ち払いながら思わず叫ぶ。仲間内ではもっとも力の強いトータモンと拮抗できるほどの力を見せ付けられて、緋色は動揺を隠せなかった。だがそれ以上に驚愕したのが、トータモンのパワーと拮抗しつつも、それと同時に自分とウィッチモンを翻弄しているという事だった。2人を狙う触手の一本一本の動きは回避することが難しいほど素早く、また緋色達の攻撃力では表面を焦がしたり切り傷を作るだけで、破壊して道を切り開くことすらできなかった。しかもそれは闇雲に振り回されるわけではない。一本避けた先にまた一本というように、退路を塞ぎつつ、さらに緋色達が狙っている頭部から少しずつ引き離すように計算された複雑な動きで触手を振り回している。ダゴモンは一体でピッドモン、ウィッチモン、トータモンの三人を完全に圧倒していた。 「くっ…!アポロン…」 緋色は炎の竜巻を纏う技で触手の中へ突っ込もうと、空中でロッドを回転させる予備動作を行う。空中で一停止したその隙を目ざとく見つけたダゴモンが、すぐさまそれを狙って触手を伸ばした。 「くっ…!」 さらに上空に退いてそれを回避しようとしたが、背中にコンクリートの壁がぶつかり、逃げ場を失う。トンネルの天井に追い詰められた緋色を鞭のようにしなる触手が容赦なく地面に叩き落した。 “このままでは近づけもせず一方的にやられるだけだ。一旦離れて電車の影に…” 「ピッドスピードで触手を避けながら近づく事はできないの?」 “避けるだけならピッドスピードでも可能だろう。だが奴の触手の動きを見たか?完全に計算づくで動いている。それにあれだけの数の触手をあの速度で捌けるんだ、ピッドスピード中でも目で追えるくらいの動体視力も持っているはず…” 戦闘経験が浅い緋色は、大人しくダルクモンの支持に従った。振り下ろされる触手を転がって回避し、地面スレスレに飛行しながら3、4両目あたりの車両のところまで逃げ、それの側面に背をぴったりと貼り付ける。ふと窓をみると、車両の反対側にウィッチモンの姿があった。同様の考えで触手の射程外まで逃げてきたらしい。緋色達がダゴモンの様子を伺うと、こちら側に手を伸ばすでもなく、手持ち無沙汰げに触手をただ動かしている。反対側のトータモンとダゴモンの「綱引き」は未だ続いているようだ。 「おおっ!?」 と、思いきやダゴモンが突然手を離した。四肢や胴体に絡まっていた触手が急に解け、トータモンはバランスを崩して体をトンネルの内壁に軽くぶつけてしまう。その間にダゴモンはさっきまでトータモンに絡みつかせていた触手を含むほとんどの触手を、先ほどそうやったように絡みつかせ、電車とほぼ同じ太さの超極太の触手を作り出す。そしてその先端を2両目の車両の断面とぴったりと合わせた。何をするつもりなのか緋色たちには分からなかったが、とにかく距離をとるべく2人は車両に背をつけたまま後退する。少しずつ後ずさっていると、背中に当たる冷たい金属の壁の感触が無くなった。その感触は五感を共有しているダルクモンにも伝わり、そして彼女と緋色とほぼ同時に、ただ単に3両目と4両目の間の隙間に来ただけだったと言う事に気付く。ダルクモンはふと、この感触からある連想をした。 隙間。 隙間を繋いでいるのは…連結器か。 連結器…?電車の車両は…繋がっている? ダルクモンは、敵の狙いに気付いた。そして叫んだ。緋色の精神に直接叫びかけるのではなく、緋色のD・バックラーのスピーカーを通してウィッチモン、双方に伝わるように。緋色を仲介していては遅すぎるからだ。 「2人共、今すぐ列車から離れろっ!」 果たして2人が背をつけていた車両から離れるのが先だったか、それとも列車全体が大蛇のようにうねり狂うのが先だったか。ダゴモンは超極太の触手を2両目の車両の中に突っ込み、滅茶苦茶に振り回したのだ。3両目以下の車両はそれに引っ張られる形でトンネル内を暴れ周り、車両が内壁と激突し崩れたコンクリートの欠片と破損した車両の金属片が嵐のように舞う。狭い空間であれだけ巨大な物体が暴れまわれば、まず逃げ場はない。 「てめぇ、何してやがる!!」 攻撃を中断させようとトータモンがダゴモンの背後から突進を仕掛ける。ダゴモンは超極太の触手を数本に別れさせて列車から離し、太い腕のような触手の束でトータモンを受け止めた。 「ウィッチモン!坊主!生きているか!?」 ダゴモンの触手と取っ組み合いながらトータモンは懸命に叫ぶ。ダゴモンの後ろに続いている線路の上では連結器が捩れて壊れた車両が斜めに横転しており、その上にトンネルが崩れた瓦礫が散らばっている。まるで大嵐がトンネルの中で吹き荒れたような惨状だった。 「な、なんとか…」 緋色のか細い声が狭いトンネル内に反響して響き渡る。車両や壁に何度も激突したものの、ピッドスピードを使って何とか最後尾の車両の後ろまで逃れていた。しかし、ダメージは軽くはなく、立ち上がろうとすると全身に鈍痛が走った。 「ウィッチモンさんは…?」 緋色は起き上がって直ぐウィッチモンの姿を探すと、程なくして彼女の被っていた赤い帽子が目にとまった。そして、その傍で最後尾の車両の下敷きになっている持ち主の姿も。緋色はすぐさま駈け寄り、車両の下の隙間に手を差し込んで持ち上げようと力を込める。するとウィッチモンが笑いながらそれを制した。 「私なら大丈夫。自分で抜け出せるわ。それよりも…」 表情は笑顔から緊張を帯びた、剣呑とした物に変わる。頭から流れている血がいっそう緋色の危機感を煽った。 「…この狭い場所じゃ部が悪すぎるから、逃げたほうがいいわ」 “私もウィッチモンの意見に賛成だ。そろそろリアライズリミットが来る頃合でもある。撤退した方がいいだろう” 「でも…!」 緋色は言葉を詰まらせた。触手による攻撃からの逃げ場がないこのトンネルでは、勝ち目が薄いという事は緋色も嫌と言うほど実感している。だが、ダゴモンを野放しにした後の事を考えるとここで逃げることは躊躇われた。退くか戦うか。突きつけられた二択に緋色は頭を悩ませるが、決断を下すまで敵がそれを待つ道理もなかった。 「危ない!」 トータモンの声に振り向くと、その方向から一本の触手が迫っていた。トータモンと取っ組み合いながらも、ダゴモンは少しずつ緋色達に近づいていたのだ。緋色はそれを弾くためにロッドを振り上げる。だが触手は緋色の頭上を通り過ぎ、ロッドの先端は空を切る。緋色が予想していた、自分かウィッチモンを狙う軌道とはまったく別の軌道で触手が動いたからだ。何故?自分達を狙ったのでなければ何が目的で?当然のように頭に浮かんだ疑問は、直ぐに解消された。 「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」 古典的表現で言えば絹を裂くような、とでも形容できそうな悲鳴がトンネル内に響き渡る。それはウィッチモンやダルクモンのものではなかった。無論、緋色ましてやトータモンやダゴモンのものでもない。そして緋色にとってはそれを聞くのは本日二度目であった。 「五十鈴さんっ!?」 思わず口にしてしまったその苗字は、緋色のクラスメイト、憧れのマドンナのもの。逃げ遅れ、先程の「嵐」で飛び散った金属片で足を怪我した五十鈴唯菜が触手に捕らえられたのだ。そのまま触手はすばやく引っ込み、本体の触手の中に飲み込まれる。ダゴモンと取っ組み合っていたトータモンが思わず身を引いた。下手に攻撃を加えては、飲み込まれている唯菜に強い衝撃を与えかねないからだ。 「ピッドスピード!」 唯菜が飲み込まれた瞬間、緋色は考えるよりも早く体が動いていた。ピッドモンの動きが倍以上に加速し、ダゴモンに向かって飛んで行く。その進路を阻むように無数の触手が持ち上がった。 “止まれ!言ったはずだ、ピッドスピードを使っても触手を全て避けきることは出来ないと!” しかし緋色はダルクモンの制止も無視して、待ち構えている触手に突っ込んでいく。唯菜の命がまさしく風前の灯であるのだと思うと、緋色は気が気でなかった。二本の触手の間を潜り抜け、待ち構えていた触手の横薙ぎも上昇して回避し、さらに進路を阻む触手をロッドで払って進路を作る。スピードだけでなく動体視力も向上する「ピッドスピード」の効果によって、立ちはだかる触手の動きの全てを目で捉えることが出来た。この速度なら直ぐにダゴモンの本体に肉薄し、唯菜を触手の中から救い出すことが出来ると緋色は確信した。だがその確信は一瞬のうちに、1秒足らずの間に否定される事となる。緋色の眼前に無数の触手郡が迫ってきた。逆扇状に迫ってくる、とでも言えばいいのだろうか、緋色の前方への進路を全て塞ぐようなコースで職種が襲う。後方、横転している車両の上に飛べば簡単に避けられると踏んで緋色は空中でバックする。それが命取りだった。横転している車両の上に爪先が触れた途端、足場を内側から突き破り、中に潜んでいた触手が伸びる。 「うわっ!?」 驚愕し、空中でバランスを崩しながらも緋色は間一髪で足元の触手を避ける。そう、前方に跳躍し、先程回避した触手郡が待ち構えるところに飛び込んで。しまったと思ったときは既に遅く、一斉に触手の先端が緋色の体を叩いた。 「ぐぁっ…!!」 全身に走る鞭の鋭い痛みに、危うく意識を手放しそうになった。痛みでその場に留まってしまえば追い討ちを受けるだけという事は緋色にも分かっていたので、兎に角この場から離れようとピッドスピードの速度を生かして触手の隙間を強行突破する。あざ笑うかのように、逃げた先に待ち構えていた触手がピッドモンの腕を叩いた。 「そんな…!」 痛みでロッドを落としながら、緋色は呻く。一瞬止まった隙を狙い触手が殺到する。立ち止まれば集中攻撃の的になるとばかりに隙間を掻い潜って飛び回るが、逃げた先には必ず触手の一撃が待ち構えていた。ダゴモンは触手を使ってピッドモンの飛行コースをコントロールし、回避不可能な位置へと追い込みながら戦っている。その事に緋色が気付く頃には、既にピッドスピードを維持できないほど体力を消耗していた。 「うっ、ぐっ、ぐぁっ!」 急激に速度が落ちた瞬間に一斉に触手が殺到し、何発もピッドモンの体を叩く。堪らずそのまま落下し、線路の上に落下した。手足はピクリとも動かない。旗から見れば既に死んだ様にみえるだろう。しかしデジモンが死を迎えるとき、ほぼ例外なくその肉体は粒子となって霧散し、跡形もなく消える。目の前の敵が未だに呼吸をしていると分かっているのなら、、ダゴモンが攻撃の手を緩めるはずがなかった。触手が集まり、先程までトータモンを相手にしていたものと同じ、太い腕のような形状となった。確実に止めを刺すためか、ご丁寧に先端が拳骨のように丸い塊になっている。それを一片の躊躇いもなく、思い切り振り下ろした。 前へ 戻る 次へ |